「摩文仁の丘の蝶」

ヒックマン加代子(32歳、陸士57期 川守田啓志、遺族)

この感想文は、平成14年5月21日から24日にかけて当協会が主催した「沖縄慰霊巡拝旅行」に、アメリカ在住の方が参加し寄せられたものです。

 私の両親が共働きだった為、私は明治生まれの厳格な祖母に育てられました。祖母は27歳の時に夫を病気で亡くし、それから女手一つで私の父を育て、その間には家族を病気で亡くした祖母の甥を自分の息子の様に可愛がって育てたと言います。私が物心ついた頃から祖母は、毎日のようにその甥が戦死したことを涙ながらに話していました。しかし当時の私は、彼がどの様な人だったのか、祖母の苦しみや悲しみを何も分かろうともせずに、「また始まった」とばかり耳を塞ぐありさまだったのです。
私がこの彼(甥)のことに興味を持ち始めたのは、アメリカのテレビで当時のドキュメンタリーを、たまたま見てからの事なのです。それはミッドウエーやガ島のもので、真珠湾、東京大空襲、それから広島・長崎の原爆以外何も知らなかった私は、驚いて言葉になりませんでした。私の祖母と同じ世代の人たちが若いときに、日本の為に命を掛けて戦っている姿。それも太平洋の遥か彼方で。同じ日本人には全く見えませんでした。それから、ドキュメンタリービデオを買い揃えて見てみると、今まで私が抱いていた日本(人)の印象が180度変わったのです。
それまでは、日本人は軟弱なのだと思っていたし、私は平気で日本は嫌いだと言っていました。そのドキュメンタリーの中には、航空特攻で米艦船に突っ込んでいく、または撃墜され海に落ちて行く飛行機や、米軍の戦艦の中の海にポツンと浮かんで生存している日本人兵士が映っており、この戦争とは、特攻とは、日本人とは何なのか、と考えるようになったのです。そこで、祖母がいつも話していた甥はどの様にして亡くなったのか、ということを思い出し家族に聞くと、誰も知らないのではないかというような答えが返ってきました。どうしても知りたかった私はインターネットを利用して沢山の方々に問い合わせをし,そのほとんどの方々から、特に当協会から多大なるご協力を得て、彼は「義烈空挺隊」の飛行隊、「第3独立飛行隊」に所属し奥山・諏訪部両隊長の乗る飛行機を操縦していたことが分かったのです。 当時の祖母の気持ちを考えると居てもたってもいられなくなり、私は是非一度、彼の亡くな
った読谷飛行場へ、祖母の代わりに行って来なければならないと思うようになりました。この5月に沖縄に行く計画を立てていたところ、当協会の慰霊巡拝旅行が5月に丁度沖縄であるということを事務局より教えていただき、このチャンスを逃してはいけないということで今回ご一緒させていただきました。この巡拝旅行者名簿が届いた時から私の緊張はすっかり高まり、今迄集めた資料などを整理し、アメリカ人の主人も今回同行する皆様に失礼の無いように、しっかり勉強して参加するようにと、英語版の沖縄戦に関する本をくれました。

 念願の読谷飛行場での慰霊は、旅行第一日目の午後、どんよりした空の下で行われました。高速道路と混み合った住宅街を通り抜けると一面のさとうきび畑になり、真直ぐな道路に入るととても立派な建物(読谷村役場)が畑の中に見え、慰霊碑はその向かいにありました。田中さん、最上さん、深川さんのお話から当時の状況を想像し、この静かなさとうきび畑の何処かに第3独立飛行隊、義烈空挺隊の皆さんが眠っておられるとは信じられない気持ちでした。私の家族は青森出身ですが、よくぞこんな遠い沖縄まで来て戦った、さぞ寂しかったのではないかと思い、当時の祖母や祖母の甥の暮らしなどを考え始めると胸が詰まって、私のこの想いが彼に届いてくれていたらと願うのと、ここで亡くなった皆さんに、絶対に皆さんのことを忘れないから安らかに眠ってくださいと祈るのでした。


読谷飛行場跡の義烈空挺隊の碑を囲み記念写真

同左の碑前にて祭壇を準備 その後参加者が焼香する。

義烈空挺隊にまつわる場所はもう一つ摩文仁の丘にあり、ここには慰霊碑、亡くなった隊員の方々のお名前、それから松本武仁さんの描かれた絵等がありました。義烈空挺隊の碑の中に入って行くと3匹の黒い蝶がやって来て、私はとても不思議な気がしました。その他の場所でも沢山の黒い蝶とトンボが飛んでおり、まるで英霊達が私達を迎えてくれているかのようでした。摩文仁の丘から下に見える沖縄戦で亡くなられた方々のお名前が刻まれている「平和の礎」に向かっての石橋一歌さんの歌。私は非常に感動し、日本人に生まれて本当によかったと心から思える瞬間でした。


摩文仁の丘から「平和の礎」を望む。

故人、川守田啓志氏の刻印を指差す投稿者

摩文仁の丘の特攻碑

旅行第三日目の洋上慰霊は今にも降り出しそうな雨雲の下、強風と激しい波のなか、那覇から渡嘉敷島へと進む船の上で行われました。私は激しい風と強い波で揺れに揺れる船に振り落とされないよう必死に立ちながら慶良間列島の見える海を眺め、こんな強風のなか小さい飛行機を、こんな強い波のなか人間魚雷を操縦してここまでやって来たのだろうかなどと考え、映像で見た沢山の米艦船で真っ黒に見える海や、対空砲火や撃墜で花火の後のような空を想像し、本当に私はその場所に居るのだろうかと、同船の高校生達のはしゃぐ声を聞きながら考えていました。長い汽笛が鳴った後、慰霊が始まりました。私は日本を守ってくれて有難う、皆さんのことは絶対に忘れませんと心で呟きながら菊の花を海に落としました。この慰霊のなかで、皆本さんの「この海で亡くなられた米兵隊の皆さんにも慰霊を」という言葉に感動し、米兵隊の皆さんにも手を合わせました。そしてこの約20分の慰霊の始終をじっと真剣に見ている高校生の姿を見て、私は非常に嬉しく思ったのでした。


船上の慰霊祭 沖縄護国神社の神官による祝詞奏上

同左における参加者による特攻平和観音経の斉唱

 特攻とは航空特攻だけだと、私はこの調査を始めるまで思っていました。震洋隊という名前は聞いたことがあったけれども、どのような特攻だったのかは旅行二日目、金武町の慰霊碑の前にくるまで知りませんでした。これを書いているたった今、こちら(アメリカ)ではテレビで特攻の特集が放映されており、震洋隊についても説明されました。この旅行の前には回天の特集で河崎さんのお姿をアメリカのテレビで拝見しておりました。日本でもこの様な番組が増えることを私は強く望みます。

 今回、沖縄で慰霊が出来たことは勿論ですが、当時を実際に生きてこられた、実際戦場へ行かれた皆様とご一緒できたことが何と言っても、私には一番嬉しく光栄なことでした。本や映像でしか目にしなかったことを、実際皆様から聞くことが出来て私は本当に感動しました。日本の為に亡くなられたり、生き残って日本の再建の為に尽くされた皆様のことを、絶対に忘れてはいけないと改めて思っております。他にも聞いておくべきことがあったなど後悔も沢山残っていますが、今回の旅行は生涯忘れられない想い出だけではなく、これからの私の力の源になると確信しております。この様な機会に恵まれたことに深く感謝し、おつき合いいただいた参加者全員の皆様と当協会に心よりお礼を申し上げます。

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