沖縄巡拝記

田中賢一

 筆者は、亡き戦友の慰霊に度々沖縄を訪れましたが、84歳の老齢となりこれが最後との思いで、今回の慰霊巡拝に参加されました。陸士52期出身で、義烈空挺隊の特攻作戦にも深く関り,当協会の機関紙「特攻」の編集責任者である。

1.義烈の御霊に捧ぐ
この碑は摩文仁の丘の2本の参道を登りつめて交わった所にあって、管理しているのは空挺同士会沖縄支部である。空挺同士会というのは、昔の空挺隊員及びその退職者の三者をもって構成した団体で、沖縄支部は以前習志野の空挺団にいて現在は沖縄の自衛隊に所属している現職自衛官を以 って構成している。
義烈空挺隊のことは、副碑の銅版に刻まれていて文語体縦書きでやや難解の文章であるが全文を紹介する。「秋ソレ昭和二十年五月二十四日夜既 ニ敗色濃キ沖縄戦場読谷飛行場ニ特如強行着陸セシ数機ノ爆撃機アリ該機ヨリ踊リ出タル決死ノ将兵ハ飛行場ニ存リシ多数ノ敵機オヨビ燃料弾薬ヲ爆砕シ混乱ノ巷ト化セシメタリ 為ニ飛行場ノ機能喪失スルコト三日間ニ及ビソノ間我ガ航空特攻機ハ敵艦船ニ対シ多大ノ戦果ヲ収ムルヲ得タリ コレ我ガ挺進第一連隊ヨリ選出セラレタル義烈空挺隊オヨビ第三独立飛行隊ノ壮挙ニシテ両将兵百十三名全員ココニ悠久ノ大義ニ殉ゼリ 後ニ続ク者ヲ信ジ日本民族守護の礎石トナリシ将兵ノ霊ニ 我等何ヲモッテ応エントスルヤ」
この副碑の裏面には全員の氏名が刻まれている。
  

碑の石は義烈空挺隊が発進した熊本健軍飛行場の西に聳える金峰山から運び出さしたもので、義烈の字は奥山隊長の遺書にある文字を拡大して刻 んだもの、このことは碑石の一隅に刻んである。
境内に設置してある陳列ケースには義烈空挺隊に因む20号の油絵2点が展示してあり、参観者の理解を深めている。油絵は4点あって空挺同士会沖縄支部適時差替えしている。碑前祭は五月月二十四日に近い日曜日に毎年沖縄支部で行われている。

2. 「空華之塔」に寄す
沖縄には慰霊の塔は全島に数えきれない程あるが、航空関係のものは極めて少ない。航空同人は「雲」を墓標と思っているのか。少ない地上の墓の一つに「空華之塔」がある。空華とはよくも名付けたものだ。空に散華した人たちの霊がここに籠っているのか。摩文仁台上の一番高い所に南向きに建っている。陸海軍航空部隊はここを先途と戦った。特攻を主体とする我が航空部隊は、初めは敵を押し切るかに見えたが、やがて物量に圧倒され敗れ去った。しかし特攻という世界戦史に類を見ない攻撃精神は、燦として輝いている。
初めの頃の我が航空攻撃の凄まじさについて、米海軍の従軍記者は次の通り報告している。
「敵機の攻撃は昼も夜も絶えたことがない。慶良間の錨地は損傷艦で埋め尽くされ、太平洋至る所、 びっこを曳く艦船の列が東へ東へと進むのが見られた。」また「悪天候が時々の休息をあたえてくれる以外は、特攻機が連日連夜襲ってくるために休む暇は無い。眠るといっても、夢幻の間に身体を横たえているだけである。警報が発せられると水兵どもは癇癪を起こし、モウ止めてくれと叫び全員がヒステリー症状だった。」
航空の英霊は今の日本人に言うだろう「お国を守るということは、容易なことではないぞ」と。

 

3. 「飛行第十九戦隊特攻の碑」に思う
台湾の第八飛行師団に属するこの戦隊(三式戦装備)は、沖縄戦で二十二名の操縦者を失い、内十七名が特攻戦死である。その一人大出博紹少尉(特操1期)の突入の模様を、直援の渡部國臣(陸士57期)が大出少尉の両親に次の通り報告している。
4月11日勇躍多くの人に送られ基地宣蘭を発つて一路沖縄へと進攻しました。大出君は攻撃間私の僚機につき発って帰らぬ首途へ従容として居られました。進攻間僚機の位置にぴったりとつき、手を上げて笑って居られました。薄暗くなつた頃漸く敵機動部隊を発見、白い航跡をくっきり残して進んで行くのが見えました。丁度右下で、対空砲火は忽ち2機を包んでしまいました。この時私が翼を振り合図するや、大出君は私に近づき莞爾として手を振りつつ反転して最も大きな巡洋艦に真直に突入んで行かれました。瞬間黒煙天を突き、艦は真っ黒い煙の中に包まれていました。攻撃間幸いに敵戦闘機には 全然遭遇せず攻撃は成功したわけであります。私は言葉には言い表すことの出来ない淋しい気持ちでありました。我々も直ぐ後に続きます。出動も間近 に迫っております。乱筆御許し下さい。 陸軍少尉 渡部國臣
これから11日後の4月22日渡部少尉も特攻出撃散華している。これらの史実後世に伝えねばならぬ。

4.読谷飛行場跡に立って
ここはまだ米軍管理下にあるという。以前は滑走路の跡が認められたが、今は地域内を一巡する一本の舗装道路の外は黙認耕作の砂糖黍畑になっていて、昔の面影はない。しかし眼を閉じて往時に思いをいたせば、かの唐瀬原で共に武を練ったゆかりの深い人達の、阿修羅の如き活躍が瞼に浮かぶ。
砕け散る地上の敵機、爆発する集積燃料、逃げ惑う敵兵。それらのことは昭和20年5月24日、熊本健軍飛行場通信所敵信傍受班の多忙振りによってしることができる。敵は火急の場合生文で放送する。最初に入ったのは22:45である。
「北飛行場異変あり」
奥山隊長から只今突入の無線(多分着陸コースに入った意味だろう)が入ってから34分後である。その後敵の電波は乱れ飛んだ。
「在空機は着陸するな」
「島外飛行場を利用せよ」
「母艦に着陸せよ」 「母艦の位置知らせ」
「残波岬の90度50浬に着陸せよ」
米軍の混乱振りを伝える資料として、米国のある書物の一節 ……この全く信ずることの出来ない突発事と、それに続く混乱の模様を、詳しく書くことは難しい。なぜならばその大部分は、話しから話に伝ってゆくうちに、真実がわからなくなってしまったからである。米軍の資料によれば無事着陸したのは1機という・それは信じてよいだろう。その1機に全員の精神が凝集していたのだ。

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