第一神風特別攻撃隊敷島隊について

会報特攻49号より

神風特別攻撃隊の編成

航空艦隊の実働兵力、わずかに40機
連合軍のレイテ攻略企図が明らかとなった時、第五基地航空隊では、艦爆2機、戦闘機6機が1330マバラカット基地から発進、レイテ湾内の敵艦船攻撃に向かっただけであった。
比島に敵の来攻があった際、比島正面の海軍航空作戦を主担任とする第五基地航空部隊では、その実働兵力は一コ特設飛行隊の常用数機程度になっていた。
第五基地航空部隊の20日予想実働兵力は、第十三航空艦隊からの来援予想兵力も含め零戦34、偵察機1、天山1、陸攻2、銀河2計40機であり、一方陸軍第四航空軍の兵力は19日午前、「戦闘機12、軽爆10、百式司偵4、重爆3計29機」であった。比島現地航空部隊の兵力は、陸海合わせても約70機に過ぎなかった。
こうした状況下、第五基地航空部隊では19日夜半、重大な決定がなされていた。それは「神風特別攻撃隊」の発足であった。敵の空母に対し、計画的に体当たり攻撃を行なうべく特別に編成された同攻撃隊は、大西瀧次郎中将の提唱によるもであった。

大西中将の体当たり攻撃決意
 10月5日、第一航空艦隊司令長官の後任予定者として、大西中将が南西方面艦隊司令部附に発令された。同中将は海軍航空の兵術、訓練、技術開発、生産などを担任する要職を歴任し、海軍航空戦力の向上に大いに貢献してきた。また実戦部隊に勤務し、その戦力を十分に発揮してきた。そのため同中将は海軍航空の中心的人物とみなされ航空生え抜きの出身もあって、関係者の信頼を一身に集めていた。

大西中将が海軍航空本部総務部長に在任中、我が海軍は南東方面において航空消耗作戦に巻き込まれ、補給は間に合わず兵力は極度に減少し また熟練搭乗員の多数を失ってその術力も一挙に低下し、航空戦力はガタ落ちになってしまった。そのため戦局は悪化の一途をたどり始めた。この戦局打開の一方策として航空関係者の間に、体当たり攻撃を主張する者さえ出てきた。

たまたま侍従武官としてこの方面を視察し、その実情を知った城英一郎大佐(航空専攻)は18年6月,帰京後ひそかに肉弾攻撃(特攻)採用と自分をその指揮官に推薦されたい旨を航空本部の首脳に話した。大西中将も特攻採用の必要性を感じていた折であったが、平常物静かで地味であった城大佐のこの意見は、同中将に一層その必要性を強く抱かせるに至ったとみられる。

大西中将は軍需省に転じ、外部から戦争の推移をながめていた。戦局はますます悪化し、最後の段階に追いつめられてきた。ところが戦局転換の主役である海軍航空部隊は、搭乗員の術力低下はますます甚しく、また機材の補充難から兵力も整わず、まことに寒心に耐えない状況となっていた。この戦力では到底戦局の転換は期待できないとみられた。技倆未熟な搭乗員と不十分な兵力では、あたら優秀な青年を、大した戦果もあげられずに、ただ犬死をさせるようなものであった。同中将はこの難局を打開するには、今こそ戦果の期待出来る特攻を採用すほかに方法はない、搭乗員にもどうせ戦死させるのならば、犬死でなく赫赫たる戦果をあげさせたいものだと考えた。

戦局の逼迫に伴い海軍部も万一の場合特攻の採用もやむなしと考えて、ひそかに特攻兵器の開発を始めていた時期である。大西中将はひそかに自己の意見を海軍部に伝えていたと思われる。「あ」号作戦の失敗により、戦局は重大段階に突入した。ここにおいて海軍航空の第一人者である大西中将を主作戦正面を担任する第一航空艦隊の司令長官に採用し、この難局に対応させることとした。その人選のうらには、戦況によっては特攻の採用はやむなしと考え、これを実施できるのは、航空関係者に信望のある大西中将をおいて他にないとの理由もあったのではなかろうか。

体当たり攻撃実施を決断す
 大西中将が東京を出発するころの第一航空艦隊の状況は、保有230機、実働149機(10月1日現在)であり、それは当初の大本営計画の実働350機の40%に過ぎなかった。従って敵の来攻が間近ならば、体当たり攻撃を採用っするよりほかに対処する方法はないように思われた.しかし部下に肉弾攻撃を要求することは重大な決意が必要であった。さすがの中将も、直ちにこれを実施刷る決意はつかなかったようである。

大西中将は10月9日東京を出発し、10日鹿屋基地に着いた。ところが同日、米機動部隊が沖縄に来襲したので、上海を経由して11日高雄に到着した。たまたま豊田長官が比島視察の帰途新竹基地にあるのを知り、同日直ちに新竹に飛んで豊田長官を訪問した。台湾は既述のとおり翌日12日から14日まで米機動部隊の攻撃を受け、同中将は豊田長官と共に、新竹上空におけるわが零戦と米グラマン戦闘機との空中戦闘を見守り、わが搭乗員の練度低下の実状をまのあたりに見て、体当たり以外に方法はないとの感を一層強くした模様である。

大西中将は16日新竹を出発し、17日マニラの第一航空艦隊司令部に到着した。この日、米軍はスルアン島に上陸して来ていた。連合軍の比島進攻の気配がにわかに濃厚になったにもかかわらず、これから自分が率いようとする第一航空艦隊の兵力が話しにならぬほどに僅少であることを同中将は知った。翌18日に挺一号作戦が発動された。連合艦隊司令部では基地航空部隊の協力下に水上艦隊を敵上陸地点に突入させようと企図し、その準備を進めていた。基地航空部隊としては、水上艦隊の突入日までに、米空母を撃沈できないまでも少なくともこれを撃破して、飛行機だけは使用できないようにしておく必要があった。しかし決戦まであと幾日もなく、また航空兵力も弱小の現状では、もはや体当たり攻撃の実施に踏み切るほかないと大西中将は決断した。同中将は寺岡長官に自己の決断を述べ、その同意を得た。寺岡長官は後任予定者である大西中将に編成を一任することにした。

航空艦隊首脳に決意を表明す


マバラカット西飛行場跡記念碑
(大西中将が特攻隊員を見送っている
情景の写真が載っている。
3枚の写真は平成14年10月25日写す)

マバラカット近郊バンバン地区にある大西長官の司令部壕跡

マバラカット神風特攻初陣の碑
以前の碑はピナツボ山の噴火で埋没、
現在その上に市の予算で建設中

 大西中将は10月19日、クラーク基地にある761空司令前田孝成大佐及び飛行長庄司八郎少佐、マバラカット基地にある第201航空司令山本栄大佐及び飛行長中島正少佐をマニラの艦隊司令部に召致した。正午過ぎ前田司令一行が到着したので、とりあえず大西中将は長官としての意向を伝えた。
山本司令の一行は、午後遅くなっても到着しなかった。途中何か異変に遭ったのではないかと大西中将は心配し、収容かたがた午後4時、中将自らクラーク基地に出向いた。
大西中将のマニラ出発と入れ違いに5時半過ぎ、山本司令一行が艦隊司令部に到着した。大西中将が基地に行ったと聞いて山本司令は直ちに引き返すことを決心し、中島少佐の操縦機でニコル飛行場を出発したが、発動機の故障で不時着し二人は負傷し、迎えの車で艦隊司令部に戻った。骨折した司令は入院し中島少佐は翌20日朝マバラカット基地に戻った。

実施航空部隊に直接はかる
 夕刻(19日)マバラカット基地の201空本部に到着した大西中将は、早速、同空の主だった者を集めた。航空部隊側からは副長玉井浅一中佐、戦斗第305飛行隊長指宿正信大尉、戦斗第311飛行隊長横山岳夫大尉が出席し、また

一航艦首席参謀猪口力平中佐、第26航空戦隊首席参謀吉岡忠一少佐が同席した。大西中将は一同を前におもむろに口を切って、『戦局は皆も承知のとおりで、今度の「捷号作戦」にもし失敗すれば、それこそ由由しい大事を招くことになる。従って,第一航空艦隊としては、是非とも第一遊撃部隊のレイテ突入を成功させねばならぬ。そのためには敵の機動部隊を叩いて、少なくとも一週間位、空母の甲板を使えないようにする必要があると思う』と述べ、ややあって、「それには零戦に250瓩爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに、確実な攻撃法はないと思うが…どんなものだろう?」と、一同にはかった。

爆弾自体の効果からすれば、飛行機と一緒に飛び込ませるよりも、高いところから投下した方が破壊力は大であった。しかし、正常の爆撃法に期待がもてないとすれば、多少威力は減少しても、確実に命中が期待できる方法をとることが、今は必要であった。

玉井中佐は、体当たり攻撃の効果について吉岡参謀に尋ねた。空母の甲板を破壊して、一時使用を停止させるぐらいの効果は十分に期待できそうであった。しかし副長の一存で決定するには、事があまりにも重大であった。中佐は司令の意向をたしかめてからにした旨を大西中将に述べた。すると、中将はすかさず「司令には話し済みであり、万事副長に委かす、ということであった」と言った。既に述べたように、この時大西中将はまだ山本司令に会っていなかった。

玉井中佐は大西中将にしばらくの猶予を請うた。そして、先任飛行隊長の指宿大尉を自室に同行すると、体当たり攻撃に直面する搭乗員の士気について互いに意見を交わし、大尉の見解も自分の意見と同じであることを確かめて、「大西中将の意見に同意したいjと自分の考えを述べた。大尉も副長の意見と全く同じであった。 再び会議が開かれた。玉井中佐は第201航空隊としての決意を大西中将に申述べると共に、編成に関しては航空隊側に一切を委して貰うよう要望した。その時「うむ」とうなずいた大西中将の顔には沈痛とともに我が意を得たという色が浮かんでいたという。

苦悩の人選
 大西中将の前を辞した玉井中佐は早速編成に着手した。中佐は第9期乙種飛行予科練習生出身の搭乗員から人選を行ないたいと思った。それには次のような事情があった。

9期出身の搭乗員は昭和18年10月、練習航空隊教程を卒業して第一航空艦隊の第265航空隊に入隊して来て以来、ずっと玉井中佐と共にあった。当時、中佐は同空の司令であったが、この若い雛鳥に大きな期待を寄せ、魂を打ち込んで教育した。その後「あ」号作戦では、これらの搭乗員は玉井中佐のもとで、幾多の悪戦苦闘を続けてきた。次いで19年7月、航空隊の編成替えが行なわれた際、玉井中佐が副長となった第201航空隊、彼らもまた編入された。その員数は既に当初の三分の一の30名になっていたが、苛烈な戦闘を戦い抜いてきたこれら搭乗員は、既に一人前の搭乗員に成長しており、戦闘意欲もまたきわめて旺盛であった。玉井中佐は自然、彼らに深い愛情を持ち、彼らもまた中佐には親に対するような心情を持っていた。そんなわけで中佐は常日ごろ、何とかしてよい機会を見つけ、彼らに立派なお役に立たせてやりたいと考えていた。

そこで、玉井中佐は隊長と相談して、この9期練習生の集合を命じた。集まった搭乗員は23名であった。中佐は戦局と大西中将の決心を説明した。すると彼らは「喜びの感激に興奮して全員双手を挙げて賛成」した。玉井中佐は猪口参謀に「彼らはその心のすべてを私の前では言い得なかった様子であるが、小さなランプ一つの薄暗い従兵室で、キラキラと目を光らして立派な決意を示していた顔は、今でも眼底に残って忘れられない」と、その時の感激を述懐したという。

玉井中佐はこの件について絶対に口外しないよう、搭乗員に注意を与えて宿舎に帰らせた。時刻は既に20日の午前0時を過ぎていた。

こうして体当たり搭乗員の主体である列機は問題なく解決した。残る問題は指揮官の人選であった。玉井副長と猪口参謀との間に相談が始まった。猪口参謀は、指揮官には海軍兵学校出身者から人選することを提案した。体当たり攻撃という任務の特殊性から、その指揮官たる者は人物、技倆、士気のすべての点で最も優れたものを人選しなければならない、と玉井中佐は考えた。

最初、戦斗第306飛行分隊長菅野直大尉が候補にのぼったが、あいにく大尉は内地に出張中であった。そこで玉井副長は、戦斗第301飛行分隊長関行男大尉を考えた。関大尉は菅野大尉と同期の海軍兵学校第70期生で、昭和19年2月に練習航空隊教程(艦爆)を卒業以来、霞ヶ浦空、台南空の飛行教官を歴任、同年9月25日付で現職に補任され(艦爆から戦闘機に転化)、約1カ月前に比島に転進して来たばかりで、戦闘経験は未だ多くはなかった。しかし大尉は着任後しばしば、玉井中佐に、熱心に戦局に対する所見を申し出て、すみやかに戦闘への参加を要求したりしていたので、着任後はまだ日が浅いにもかかわらず中佐に強い印象を与えていた。

玉井中佐はこの人選について猪口参謀の意見を求め、参謀もこれに同意した。そこで早速、従兵に関大佐を呼びにやらせた。やがて、大尉は士官室に出頭した。玉井中佐は体当たり攻撃隊の指揮官になって貰いたい旨を告げ、大尉の意向を尋ねた。関大尉はしばらく沈思黙考したのち「是非、私にやらして下さい」と、明瞭な口調で返答した。

こうして、体当たり攻撃隊24名の人選が終った。猪口参謀は、これを大西中将に報告しその了承を得た。10月20日の午前1時過ぎであった。攻撃隊は「神風特別攻撃隊」と呼称されることになり、また同攻撃隊は四隊に区分され、それぞれに「敷島、大和、朝日、山櫻」の隊名を付された。

訓示
 大西中将は、20日午前10時、特別攻撃隊全員を第201航空隊本部に集め、門出の激励と感激の訓示を行なった。関大尉を先頭にして、敷島、大和、朝日、山櫻、の隊員24名が並び、玉井中佐と副官(門司地親徳大尉)が陪席した。

中将の訓示の骨子は次のとおりであった。

「日本はまさに危機である。しかもこの危機を救いうるものは、大臣でも大将でも軍令部総長でもない。勿論自分のような長官でもない。それは諸子の如き純真にして気力に満ちた若い人々のみである。従って自分は一億国民に代わって皆にお願いする。どうか成功を祈る

皆は既に神である。神であるから欲望はないであろう。が、もしあるとすれば、それは自分の体当たりが、無駄ではなかったかどうか、それを知りたいことであろう。しかし皆は永い眠りにつくのであるから、残念ながら知ることも出来ないし、知らせることも出来ない。だが自分はこれを見届けて、必ず上聞に達する様にするから、そこは安心して行ってくれ」

「しっかり頼む」

訓示を終って、大西中将は隊員の一人一人と熱い握手をかわした。

編成の発令
 事実上、神風特別攻撃隊の編成を終えて、20日夕刻マニラの司令部に帰着した大西中将は、同夜2000、寺岡前司令長官との交替を終わり、ここに正式に第一航空艦隊を指揮することになった。この日、大西中将は第一航空艦隊司令長官として発令された。同中将は翌21日13:02「20日着任、長官交代ヲ了ス」と全軍に通電した。

大西長官は就任すると、まず第201航空隊司令に対して正式に体当たり攻撃隊の編成を命じるとともに、豊田長官に対し同攻撃隊を編成した旨を報告した。

その後10月22日から26日までの間に、更に零戦四隊(菊水、若櫻、葉櫻、初櫻)及び彗星隊(彗星一機ー10月25日)が編成された。各隊は体当たり攻撃をなすもの二機、直掩、戦果偵察をなすもの二機をもって一組とするのを標準とした。なお第六基地航空部隊におても、10月25日の決戦が終ったのちに体当たり攻撃の採用実施に踏み切り、27,29の両日に彗星計8機が編成されるに至ったので、第五基地航空部隊のものを「第一神風特別攻撃隊」、第六基地航空部隊のものを「第二神風特別攻撃隊」とそれぞれ呼称することとなった。

出撃、決戦日までの空母撃破成らず
 大和隊は編成当日直ちにセブに進出した。また朝日、山櫻の各隊は23日に、そして菊水隊は24日にダバオにそれぞれ進出した。かくて24日までに、マバラカットにあったのは敷島隊だけとなった。

各隊は21日から空母攻撃に出撃したが、決戦日までに、いずれもてきを捕捉できなかった。この間大和隊では未帰還2機を生じた。最初のものは、21日レイテ東方の敵空母攻撃に向かった久野好孚中尉であった。

この日、大和隊は13:15セブの100度235浬に発見を報じられた空母二隻、特空母2隻基幹の敵機動部隊を攻撃のため14:30、まさに発進しようとしていた時、敵機の攻撃を受け全機(6機)炎上した。直ちに予備機を準備して16:25、零戦3機(指揮官久野好孚)が発進した。攻撃隊は、途中天候に阻まれ、うち2機は敵を発見するに至らず帰投したが、久野中尉機は未帰還となった。久野機の戦果は、列機が天候不良のため分離したため不明であったが、「本人ノ特攻ニ対スル熱意ト性情ヨリ判断シ 不良ナル天候ヲ冒シ克ク敵ヲ求メ体当タリ攻撃ヲ決行セルモノト推定」された。

次いで23日、零戦に搭乗して05:00発進、スルアン沖の敵空母索敵攻撃に向かった佐藤馨上飛曹は再び還らなかった。同機も体当たり攻撃を決行したものと考えられた。

敷島隊指揮官関大尉は連日の攻撃にもかかわらず、いまだに敵空母を捕捉できないことに深刻に責任を感じ、涙を流して玉井副長に詫びていたという。関大尉らの隊が初めて体当たり攻撃に成功したのは、後述するように、第一遊撃部隊のレイテ突入日である10月25日のことであった。

神風特別攻撃隊、空母を撃沈

菊水隊、初の戦果をあぐ
 第六基地航空部隊がレガスピー東方の敵大部隊に全力攻撃をかけている間、第一遊撃部隊と交戦の米空母部隊に体当たり攻撃を加えていた攻撃部隊があった。それは神風特別攻撃隊(敷島、大和、朝日、山櫻、菊水隊)で、この日クラーク、セブ及びダバオの三方面からそれぞれ出撃、その編成以来初めて敵空母の捕捉に成功した。

最初に敵空母を捕捉したのはダバオ発進のものであった。朝日,山櫻、菊水各隊は06:30ダバオ基地を発進、ミンダナオ東方海面に対し索敵攻撃に向かった。

菊水隊(零戦3機ー攻撃2、直掩1)は08:00ころ、スリガオ東方40浬付近で、北進中の空母5隻(うち特空母3)、戦艦2隻を発見した。攻撃隊は直ちに空母目がけて突入し、うち1機が大型空母の艦尾に命中したのが認められた。

この戦果は直掩機のセブ帰還後、同基地から09:48次のとおり打電された。

特菊水隊(体当リ2、掩護1)06:30「ダバオ」第二基地発「スリガオ」島東方約40浬(正確ナラズ)ヲ北進中ノ空母5(内 特空母3)戦艦2ヲ基幹トスル機動部隊ヲ攻撃1機正規空母ノ艦尾ニ命中 火災停止スルヲ確認ス

 菊水隊の戦果がよく合点できなかったものか、27日同隊所属航空隊の司令である第201航空隊司令から、「戦果ヲ挙ゲタル菊水隊搭乗員、担任区域至急知ラサレ度」との照会電が発せられ、第61航空戦隊司令官は同日、「(1)編成 特攻菊水隊宮川一飛曹、加藤一飛曹、直掩隊藍森上飛曹計3機 (2) 索敵攻撃路…」と打電している。

後述の敷島隊よりも約3時間前に体当たり攻撃に成功した同隊は、本来ならば神風特別攻撃における、戦果を確認された最初の隊として、その栄誉を与えられるべきであったが、確認に手間取り連合艦隊司令長官への報告が遅れたため、その栄誉は関大尉指揮の敷島隊が担うことになった。

朝日隊(零戦3機ー攻撃2、直掩1)及び山櫻隊(零戦4機ー攻撃2、直掩2)は攻撃隊を見失って、10:20レガスピーに帰投した。山櫻隊の直掩2機のほか全機未帰還となり、戦果は明らかでなかった。

敷島隊、空母を撃沈す
 敷島隊(零戦9機ー攻撃5、直掩4)は、関行男大尉のもとに07:25マバラカットを発進、比島東海岸沿いにタクロバンに向かって索敵攻撃の途中、10:10東方スコールの中に、戦艦4~5隻、巡洋艦、駆逐艦等30隻以上、F6F25機在空の部隊が北進しているのを認めた(第一遊撃部隊を認めたものと思われる)。次いで10:40、タクロバンの85度約90浬に、空母4隻、巡洋艦、駆逐艦など6隻の一群を発見、10:45、攻撃隊は空母めがけて突入した。直掩機により確認された戦果はまことに偉大であった。零戦2機が1隻の中型空母に命中、同空母は沈没した。1機の命中を受けた別の中型空母は火災を起こし停止した。もう1機は巡洋艦に突入、これを轟沈させた。

この間、直掩隊(指揮官 西澤廣義飛曹長)はグラマン戦闘機2機を撃墜したが、味方も1機(菅川操飛長)が対空砲火を受け自爆した。

敷島隊の戦果はセブ基地から12:05、『敷島隊07:15「マバラカット」発「スルアン」島ノ30度30浬中型空母4隻を基幹トスル4隊ノ敵ヲ10:45攻撃 戦果空母1隻2機命中撃沈 空母1隻1機命中火災停止 軽巡1隻1機命中轟沈』(セブ基地機密2512:05番電)と打電された。


大尉 関行男

一飛曹 中野盤雄

飛長 永峰肇

一飛曹 谷暢夫

上飛 大黒繁男

市川国雄 画

注)この電報を「大和」が受信したのは1600で、第一遊撃隊はそのころ、「北方ノ敵機動部隊」との決戦を断念して、サンベルナルジノ海峡に向かっていた。
栗田長官がサマール島南東の敵空母群に対する追撃戦を中止し、レイテへの進撃のため、北上しつつ艦隊の終結を図っていた時、その南方20浬の海面で、わずか5機の零戦がその空母群に追い打ちをかけ、戦艦大和以下の主力艦隊にも劣らぬ戦果をあげていたなど、同長官はしるよしもなかった。

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