第三編 顕彰譜

新年によせて 新年によせて

(特攻隊戦没者慰霊顕彰会会員)
茶道裏千家大宗匠千玄室

 感染症の収束が見通せない中での新年ではありますが、恙なく迎えられたこと
お喜び申します。

 本年は、壬寅の年回りであり、冬が厳しいほど春の芽吹きは生命力に溢れると言われます。皆さん方が感染予防の為に日々努力を重ねられた結果が出ることを、願わずにはいられません。

 あの忌まわしい戦いが、敗戦という結果で終結してから七十七年がたちました。
八月十五日を終戦記念日とおっしゃるが、私にとっては敗戦記念日にほかならないのであります。
戦争というものは、非常に残酷なものであり直接には関与しない一般の人達が命を失っていかなくてはならない、その様な残酷な戦争というものが引き起こされないよう多くの人達が祈っているのです。
私は、先の大戦時に大学二年生で徴兵猶予が取り消され、体も壮健でありましたので海軍に採用されました。その後試験を通り難関だった海軍航空隊の搭乗員として、わずかな期間の士官教育と飛行訓
練を受けた後、海軍少尉に任官しました。
そして特別攻撃隊編成により、白菊特別攻撃隊隊員となったのです。
日々、飛行機と取り組み、最後には特攻として突っ込んでいく訓練をするという厳しい道の中に私達は存在していたのです。戦争がひどくなる中、一九四五年五月に沖縄攻撃に向け徳島航空隊から三十
機が九州南端の鹿屋の基地へ進発しました。しかし鹿屋の基地は既に戦闘機、艦上攻撃機、艦上爆撃機で一杯になっており、我々はすぐ先の串良の基地から出撃になりました。皆が進発していく中、私
には待機命令が出て不本意ながら松山基地に参りましてそこで終戦、敗戦を迎えました。七十七年間常に忸怩たる思いを抱え、出撃前に皆にお茶を振る舞った時の「生きて帰ったらおまえのとこの茶室
で茶をのませてくれよ」と言った声が今も耳奥に残っています。私の背には多くの戦友が顔を揃えてついているのを常に感じております。

 父の時代から毎年十月四日に靖国神社でお献茶をご奉仕して参りました。当然私も毎年ご奉仕しております。何か靖国神社というと、先の大戦の戦犯の事のみ話題になりますが本来日清・日露の両戦
争や第一次世界大戦など色々な戦争の戦没者が祀られており、明治時代には既に創建されていたのです。
靖国神社で亡き戦友の御霊を思い一碗をお捧げする時、いつも何かさーっと爽やかな風が吹き渡るのを感ずるのであります。

 最近、一期一会という言葉が簡単に使われているように感ずるのですが、これは茶の世界で生まれた言葉であり、亭主は今この一碗を差し上げたなら死んでも良い。客もこのお茶を頂けるなら命を捧げ
ても構わない、という主客両者の人間哲学が含まれていることを申し上げたいのです。私は一?のお茶をもって世界を廻りました。茶の道は一見難しい作法ばかりと思われるようですが、スポーツにも
ルールがあるように美味しいお茶を差し上げ人と人との絆を大切にするためにこの作法があるのです。利休居士が残された和敬清寂の教えをあまねく世界の皆様
にお教えしたい。
家庭内においても一寸したいざこざは存在するし、未だに世界各地で戦いが人々の生活を脅かしております。家族間でも国家間でも、相互に自身の権力を保持しようとするためにぶつかり合うのです。
何故、半歩でもお互いに一寸足を引き心からの話合いが出来ないのでしょう。
このような話し合いが出来る世の中をつくるために、私はこれからもお茶の心を広めていきたい所存です。その様な自分の念願の生存感というもので生かされていることを有り難く思い、日々戦没者の
御霊に一碗のお茶を捧げております。