3. 体当たり攻撃 3. 体当たり攻撃

昭和19年2月17、18日、海軍の中部太平洋の牙城トラック島が米機動隊の連続大空襲を受け、その機能の大半を失った。次いで4月22日、西進するマッカーサー軍は西部ニューギニアの要衝アイタペ、ホーランジアに上陸し、苦戦を重ねていた陸軍の第4航空軍主力は潰滅した。

更に5月17日、敵のビアク島上陸支援の駆逐艦群に対する高田勝重戦隊長以下四機の壮烈な体当たり攻撃と戦果は全軍を感激させ、陸軍航空特攻の先駆となった。陸軍では7月ころから四式重爆撃機と九九式双発軽爆撃機の体当たり機への改修が、ひそかに始められたのである。


 昭和19年6月15日、米軍はサイパン島に上陸を開始した。サイパンは中部太平洋防衛の天王山である。ここを失えば、連合軍は西部太平洋を自由に行動しうるだけでなく、日本本土はB−29による爆撃にさらされるのである。守備軍は作戦準備未完ながらよく健闘したが、17日はヒナシス丘陵の防衛線も崩壊した。この危急を救う海軍第1航空艦隊(基地航空部隊)は、18日からの戦闘でその大部を失い、小沢中将指揮の第1機動艦隊も19日から20日にわたり敢闘したが、空母大鳳、翔鶴、飛鷹の三隻と艦載機の大部分を失って敗退した。搭乗員の訓練期間不足による技量未熟が主因であった。

7月7日、四万余の陸海軍守備将兵の死闘も空しくサイパンは敵手に陥ちた。
7月22日、東條内閣は責任を負って総辞職し、替わって小磯国昭内閣が成立した。事態はまさに急であった。この後海軍航空においては体当たり攻撃の準備が急速に進められた。6月27日館山航空隊司令官岡村基春大佐が、航空兵器総局の大西瀧治郎中将を訪ね、体当たり攻撃の必要を論じ、特攻に適する飛行機の生産を要望した。この後海軍生産機に「爆装戦闘機」が採用された。また、8月には大田正一少尉が桜花の構想を上申した。

 桜花はロケット噴進の有翼爆弾を操縦して敵艦に激突するものである。一式陸攻を母機とし、四、〇〇〇メートルの高度から発進するもので、8月16日空技廠で設計に着手、9月初旬一号機を完成した。

その性能は次のようである。
乗員一名 機幅五・〇米 機長六・〇六米 機高一・一六米 翼面積六平方米 全備重量二、一四〇瓩 航続距離二〇海里 弾量一、二〇〇瓩 滑空速度二五〇節 噴進時速度三五〇節
 約二カ月間訓練された桜花の乗員と桜花一一型五〇機を積んだ空母信濃が、11月29日潮岬沖で敵潜水艦によって撃沈され、比島作戦には使用できなかった。
 いっぽう、陸・海軍の水上特攻隊、㋹艇隊、震洋隊員の訓練と装備は順調に進み、19年8〜9月ごろには作戦可能の状態になった。9月、海軍の震洋第1〜第5部隊は小笠原諸島の父島、母島、に第6〜13部隊はフィリピンに展開を命じられた。㋹の海上挺進戦隊八個戦隊約八〇〇隻は米軍の比島進攻に先立って予想上陸地点に配備された。
 回天の建造と訓練も順調であったが、その第一陣菊水隊が徳山基地を発進できたのは、神風特別攻撃隊の成功を伝えられた五日の後、11月7日であった。
 比島作戦開始前における、特攻に関連する空・海の事情は右のようであった。もとよりグアム、テニアン守備隊の玉砕、ペリリュー、アンガウル守備隊の善戦敢闘は将兵の士気を高揚し、全軍特攻の覚悟が陸海軍将兵の間に滲透しつつあった。