6. 全軍特攻 6. 全軍特攻

昭和20年4月15日、陸軍は東日本に第1総軍、西日本に第2総軍、本土方面全航空を航空総軍に統轄させる統帥態勢を発足させた。そして、根こそぎ動員によって多数の師団を編成し、要地に配置した。その数およそ二四〇万人、六月末義勇兵役法を制定して、老若男女をこれに協力させる態勢をととのえた。十人一殺の肉弾戦を構想したのである。
 相次ぐ空襲と資源の欠乏によって、飛行機の生産が低下した。それに地上軍の膨大化に伴う武器の生産も急がねばならなかった。しかし本土防衛には航空特攻が最も期待されていた。特攻機の生産は続けられ、壊れた飛行機をつぎはぎして特攻機に仕立てた。多くの秘密飛行場を作るために、老婦人も、もっこをかつぎ、スコップをふるった。

 このようにして7月20日ごろ、航空総軍隷下の部隊は東日本の第1航空軍に一般作戦機五〇〇、特攻機六〇〇、西日本の第6航空軍に一般作戦機四〇〇、特攻機一、〇〇〇、朝鮮の第5航空軍に一般作戦機二〇〇、特攻機五〇〇が用意された。特攻機の総数は二、一〇〇であるが、8月末までには三、〇〇〇機に増勢される予定であった。学徒であった多くの若者達が必死の思いで特攻の日に備えていた。比島で偉功を奏した㋹艇は、約二、〇〇〇隻が敵予想上陸地点に配置されていた。
 主力艦艇を失っていた海軍の特攻戦備の主力は航空であり、終戦ごろの海軍航空兵力は偵察部隊一四〇機、制空部隊一、〇三〇機、対機動部隊特攻三三〇機、対攻略部隊特攻三、七二五機、計五、二二五機であった。これらは七十余カ所に分散配置されていた。「桜花」は四三型が開発され、関東一帯の地上基地から発進するよう、基地整備が進められていた。
 日本海軍は、侵攻部隊が日本沿岸に近づいた時、四五隻の潜水艦を使用して主に輸送船団を狙い、同時に空から陸海協同する集中特攻攻撃を行ない、そのあと残った巡洋艦二隻と駆逐艦二三隻、そして更に多くの人間魚雷(蛟龍、回天、海龍)、震洋で迎え撃つ計画であった。特攻フロッグマン伏龍一、二〇〇名がその後に続いていた。
 渾身の努力を振るっての特攻戦備であったが、昭和20年8月15日敗戦を受諾する戦争の終結によってその戦闘は実現しなかった。特攻隊員の中にも、敗戦を肯んせず自決する者が生じた。満洲では特攻隊員の教官であった10名が8月19日、侵入したソ連戦車群に突入した。友に死に遅れた無念さと、戦わずして敗れることを潔よしとしない不屈の魂が彼等を死に誘ったのであろうか。しかし、その他の特攻隊員全員は、粛然として自分の故郷に復員した。それは生きて祖国の再建に尽くせとの天皇の諭旨に従ったものである