第一編 特別攻撃隊の戦闘  第1章 特殊潜航艇 (甲標的・蛟龍)

2.  特殊潜航艇の着想と誕生 2.  特殊潜航艇の着想と誕生

 昭和6年12月海軍艦政本部第一部第二課長岸本鹿子治大佐は、魚雷状の小型高速艇で敵に近迫し魚雷を発射して必中を期する新兵器を着想し、艦政本部の朝熊利英造兵中佐にその研究を極秘裡に特命した。
注:この兵器の着想のヒントは日露戦争当時旅順攻撃において横尾敬義少尉が           魚雷を抱いて敵艦を攻撃するという企図のあったことから 得られたという。


 この研究で、速力三〇節射程六万米の能力を持つ魚雷状のものに人間が乗り、洋上艦隊決戦に参加し、魚雷発射後は戦場に止まって収容を待つという、二次電池を原動力とする兵器が一応の成果を得た。この射程六万米は彼我の砲戦距離を基礎とし、速力三〇節は米国戦艦の速力二〇節の一・五倍を求めたものである。
 岸本大佐はこの成案を機密保持と上申途中の障害を避けるため、順序を経ずに軍令部総長伏見宮博恭王殿下に直接説明した。その際殿下から「ぶつかるのではないだろうね」と念を押されたが岸本大佐は「本兵器は決死的ではありますが収容の方策も考えてあり決して必死隊ではありません」と答え、軍令部総長は研究開発を決断し、海軍省に研究を要求した。
 

昭和7年8月設計を開始し極秘裡にかつ短期間に設計を終了した。担当は船体設計片山有樹造船中佐、水雷関係朝熊利英造兵中佐、電機関係名和武造兵中佐で、補助として海軍技師丸石山三郎、同石井欣之助及び海軍技手楠厚がこれに当った。設計上の問題は、先づ技術的先例のない兵器であることであり、主動力の電池から出る人体に有害なガスをどうするか、速力の調節をどうするか等の難問が山積したが、いづれも関係者の創意苦心の結果有毒ガスはパラジウム触媒の利用により、又速力の変換は電池の直列と並列の組合せをギアーで切換えることにより解決し、その他の点も実用に差支えないよう解決した。昭和7年10月呉海軍
工廠魚雷実験部に製造が命ぜられ、昭和8年8月伊予灘において無人航走試験が行なわれ速力二四・八五節を得た。


 二四・八五節という速力は、デザインその他その後の実験によると三〇節出ることになっていたが、必死兵器は作ってはならないということと、安全の上にも安全を、と帰投のことを考え次々に予定外のものを取付けたためであった。
 昭和8年10月加藤良之助少佐、原田新機関中尉の二名が実際に搭乗して瀬戸内海で各種の性能試験を行ない、又昭和9年夏から高知県宿毛湾外で外洋実験を行ない年末に終了した。その結果二二節/五〇分の成績を出し、外洋のうねりに対する対応策と航走能力の改善が要望されたが、艦隊決戦用として試作艇は呉の魚雷実験部に厳重に保管された。かくして特殊潜航艇は誕生した。