3. 開戦までの甲標的 3. 開戦までの甲標的

甲標的の使用構想

 第一次試作艇のあと第二次試作艇の本格的設計に掛ったのは昭和13年8月でこの3年8カ月の間に内外の情勢がますます緊迫した中で、第二次試作二基の特殊潜航艇の製造訓令の発せられたのは昭和14年7月であった。
 軍令部は、対米戦争の場合五:五:三の比率による優勢な敵主力来攻部隊を彼我主力の決戦場までに、あらゆる手段により我と同等或はそれ以下に漸減させこれを撃滅するため、その一環として艦隊決戦場裡に特殊潜航艇を集中使用し、敵艦隊との決戦前一斉に敵に殺到させ、多数の魚雷(特殊潜航艇一二基搭載の母艦三隻、一基に魚雷二本、したがって七二本の魚雷)をもって攻撃し、魚雷発射後はその場付近にとどまって収容をまつという構想を検討していた。
 この構想の問題点は、母艦がいかにして好機を捉えて敵主力の前面に進出し、好射点を占めて隠密裡に特殊潜航艇を発進させるかという点にあった。
 当時の特殊潜航艇整備将来計画の概要は次のとおりであった。
㈠ なるべく早く呉工廠で二基試製の上有人実験を行なう。
㈡ 上記終了後搭載艦よりの発進試験を行なう。
㈢ 実験の結果兵器に採用された場合なるべく早く四八基(搭載艦三隻
  定数三六基予備一二基)を呉工廠で建造する。
㈣ 呉軍港付近の適地に格納並びに整備等に必要な基地を設定整備する。
㈤ 搭乗員の養成を行なう。
㈥ 水上機母艦三隻に第二状態工事を実施する。
 第二次試作艇設計の頃から超機密扱いであったものに、実務者レベルの極く少数者も参画し始めた。即ち艦政本部二部小山貞中佐、軍務局第一課山田盛重中佐、軍令部三課長沢浩中佐、艦政本部第一課岡部三四二中佐、軍令部第一課有泉竜之助中佐である。

搭載母艦

 母艦として特殊潜航艇を艦隊決戦場まで運搬すべき艦については㊁計画に組み込まれ、千歳型三隻を建造することとなった。この艦は水上機母艦(第一状態)として建造され、有事所要の際に特殊潜航艇搭載母艦(第二状態)に改造することにしてあった。昭和8年設計に着手、同9年11月千歳、同12月に千代田が起工され昭和13年竣工した。
 第二状態として改造の場合の大略は中央より後部吃水線上約一米の高さに格納庫を設け一二基を夫々架台に乗せて軌条に納める。上甲板に搭載用ハッチとクレーンを設け舷側より吊上げ積み込むようにする。艦尾に発進用開口を作り一〇度の傾斜をもった二条の軌条に沿って架台に乗った特殊潜航艇を鋼鎖を使って電動機によって索引し、艦尾から架台諸共投下発進させるというものであった。


機密保持

 機密保持については、奇襲兵器であるためその存在が敵側に知られては対応策を立てられて苦心の結果が水泡に帰する。そのために関係者は大変な苦労をした。例えば一次試製の際は中佐以下は参与させず、二次試製以後も従来以上に厳重を極めた。呉工廠で造ったが主務の魚雷実験部長は、工廠長にすら全般の分かる説明報告はせず、要すれば艦政本部に直接聞くこととし(勿論ここでも適当な返事しかしなかった)建造に関係する工員も厳重な身許調査の上、箝口令が敷かれ、魚雷実験部への出入も格別に厳しかった。
 特殊潜航艇関係の書類は一切郵送せず必ず携行し、見学者は必ず海軍大臣の許可を要した。千代田における特殊潜航艇発進実験には所轄の呉鎮守府長官すら見学を許されなかったほどであった。結果的にはよく秘密が守られ、国の大事については当時の人が実に口が堅かったことを示している。

第二次試作艇の成功

  昭和15年4月一号艇完成5月より各種試験を伊予灘安芸灘にて実施し、6月末に終了した。搭乗員は関戸好蜜大尉と堀俊雄機関中尉であった。結果は外洋における使用には、自ら制限があり兵器としての正式採用の可否は軍艦千代田による発進実験後に持ち越された。
 千代田における発進実験は15年7月から8月中旬まで母艦航走中の投下が搭乗員及び甲標的に及ぼす影響の検討を期して、無人のまま或は搭乗員が搭乗して、各種の母艦速力で行なわれた。

 速力が一二節付近よりも高速になるに伴って、甲標的は着水時の仰角が少く、発進にも有利とも認められ、二〇節でも勿論異状なく投下実験は終了した。次いで8月下旬豊後水道南方洋上稍波浪のある海面において実験的襲撃訓練を実施し、潜望鏡深度における甲標的は波浪によって相当動揺し観測が困難に陥いることが認められ、8月26日第二次試作艇の実験は終了した。
 小山貞氏は当時を次のように回想している。「千代田からの発進実験は、海軍初めての経験であり、風浪の大きさ方向、発進時搭載艦の速力などの組合せによって無人実験一〇数回、最後の有人実験に至るまで慎重周密に実験が進められた。甲標的の洋上実験の成果だけでは、ちょっと首を傾けていた豊田副武艦政本部長も、千代田からの発進実験のみごとな結果には大いに満足し、この分なら艦隊決戦に使えそうだと思われたようであった。四六噸の巨体が、二〇節で航走する千代田の艦尾から発進後しばらくは水中に姿を没するがやがて姿を現わすとともに、ウエーキ外に出て航走を開始する情景は実に壮烈なものであった。本実験
の成功を目のあたりにしながら、もし三隻とも首尾よく主力の前方に進出できて三六基の発進に成功し、一斉に敵主力に殺到できたならば……と、その場面を想像し、まさに血湧き肉躍る思いであった。……」
 昭和15年11月15日兵器に採用され、正式にこの時点から甲標的と称せられた。兵器採用に際し技術者側からは、第二次試製甲標的は技術の粋をつくしたもので、これ以上の性能アップを望むならばもっと大型化しなければならないとの意見が出され、用兵者側からは大型化することは搭載艦との関係で無理がある。かつ時局も切迫しており、あとは指揮運用教育訓練によってその欠を補うよう努め、この際兵器に採用し既定計画を促進するを可とするとの意見が出された。使用目的はあくまでも艦隊決戦用であって、当時敵港湾在泊艦船奇襲攻撃については論ぜられたこともなかった。
15年10月10日一〇基分の製造訓令が出され、計一二基の母艦一隻分を揃えることになったが、間もなく二隻分計二四基の製造訓令が出された。