4. 甲標的の戦闘 4. 甲標的の戦闘

港湾奇襲作戦の着想

昭和15年11月岩佐直治、秋枝三郎両中尉外一一名の准士官・下士官が千代田乗組を命ぜられ最初の甲標的講習を開始した。講習は機構操縦は呉工廠魚雷実験部、襲撃運動は千代田艦長(原田覚大佐)指導のもとに種々の制約、関係者の苦労の中で実施された。いざ講習を始めて見ると不工合個所が続出した。その主なものは、㈠予備浮力が大き過ぎ(計画+三〇〇瓩)安定潜航が困難である。㈡羅針儀に信頼性がない。㈢居住性と操舵空気の関係で持続力が四時間程度である。ということであり関係者は大いに努力したが改善は遅々として進まなかった。16年4月に始まった第二期講習が八月下旬終了するとともに、千代田は第二状態完成諸公試に従事することとなった。千代田艦長はこの際各部から参集する委員に甲標的の現状を認識してもらうべく企図し、各艇長に甲標的の用法改善事項につき研究答申を求めた。その成果の一つとして「甲標的の戦術用法の研究」が答申され、その中に標的使用法として㈠港湾襲撃、㈡索敵部隊協力、㈢艦隊決戦時使用の三項が挙げられている。ここで初めて甲標的の港湾襲撃という用法が着想された。この原案者は岩佐中尉であった様である。この研究は千代田公試に参集の各委員、連合艦隊水雷参謀有馬中佐に説明報告された。その後のことについて原田覚千代田艦長は「対米作戦最後の図演を実施するということだから二、三艇長を連れて見学に行った。同僚と雑談しておったら山本長官から直接『千代田艦長一寸』といわれ、陸奥の後部砲塔右舷に長官について行った。右舷側の人なき所に行き長官は突然『君から出された標的の戦術用法中に、潜水艦で敵港湾入口まで運び侵入するというが実現可能なりや、又乗員一同士気如何』ということであった。小生は『この案は乗員の発案であって実行の士気は大いに振るっている』旨お答えした。長官は更に『そうか艇長の発案か、それでは如何なる潜水艦で運び得るか、又敵港湾中どれとどれが侵入できるか、又襲撃後帰還に対する可能性ありや、に対し至急研究し成果を報告せよ』とのことであった。
 潜水艦に対しては自分がこれに当ることとし、港湾侵入に関しては岩佐と松尾に担当せしめた。……研究成果を持参、岩佐と共に陸奥に出頭し、先ず小官からの研究の成果、海大四型潜以後の大型ならば後甲板に一筒搭載する広さは充分であるが、潜水艦船体強度及びGM関係(※)は技術官の調査を必要とする旨申上げた。次に岩佐中尉が真珠湾、桑港、シンガポールの軍機図を示し、その行程、離脱位置、侵入法、襲撃法、脱出計画、収容位置の胸算用等に就いて説明、特に真珠湾は確信あるもシンガポールは稍困難なる旨申上げたのに対し『船体強度、GM関係(※)は当局にて調査せしむべし、又シンガポールに対しては背面より陸攻するか又他に方法あり、真珠湾に侵入後脱出の確信ありや』との長官の言に対し『侵入後の脱出に対しては充分確信あり』と岩佐より申告した。次いで小
生より『若し真珠湾侵入決行せらるるならば筒の改造、乗員の訓練に相当の日時を要するを以て速かに当局に発動せしむる様お願いする』旨申告した。長官は唯『そうか』といわれただけであった。」と記録している。
                    ※GM関係: 安定性関係

第一次特別攻撃隊

開戦時の第六艦隊司令長官清水光美中将は「日露戦争のときは決死隊とか閉塞隊という名も使われたが、特殊潜航艇の場合は連合隊艦隊司令長官も慎重検討の結果成功の算あり収容の方策もまた講じ得ると認めて志願者の熱意を入れられたのだからということで、決死等という言葉は避け特別攻撃隊と称することに決まった」と回顧している。後の終戦間近の特攻隊とは全く別のものである。
 ハワイ作戦に甲標的の参加が決まったが、問題は甲標的を目的地まで運搬する母潜水艦の改造工事である。12月8日開戦とすれば訓練及びハワイ周辺進出のため約一カ月を要する。11月10日頃迄に五隻の潜水艦の甲標的搭載改造工事及び発進テストを完成しなければならない。10月19日改造訓令が出され、その後は文宇通り昼夜兼行、乗員、工廠関係者の懸命の努力により、ぎりぎりの11月18日特型格納筒を搭載した潜水部隊は安芸灘からひそかにハワイに向け出港した。
 その作戦計画の概要は次の通りであった。


一、編   成
  指揮官 佐々木半九大佐(第三潜水隊司令)

   潜水艦名 艦  長     特型格納筒
   伊16   山田 薫  中佐 艇長 横山 正治 中尉
                 艇付 上田  定 二曹
   伊18   大谷 清教 中佐 艇長 古野 繁実 中尉
                 艇付 横山 薫範 一曹
   伊20   山田  隆 中佐 艇長 広尾  彰 少尉
                 艇付 片山 義雄 二曹
   伊22   揚田 清猪 中佐 艇長 岩佐 直治 大尉
                 艇付 佐々木直吉 一曹
   伊24   花房 博志 中佐 艇長 酒巻 和男 少尉
                 艇付 稲垣  清 二曹
        指揮官付(予備艇長)松尾敬宇中尉
        各艦に格納筒整備のため下士官二名配乗


二、特別攻撃隊は11月18日夜亀ケ首発、途中散開進撃し、ミッドウェーの六〇〇浬圏から昼間潜航夜間浮上進撃(速力一四節)とする。
三、X-二日日没後真珠湾の一〇〇浬圏に達し、格納筒の最後の整備を行ない X −一日一三〇〇(現地の日没後)真珠湾口の一〇浬圏を通過し湾口から約一〇浬の地点において湾口確認後格納筒を発進する。格納筒は伊16、伊20、伊24、 伊18、伊22潜の順に三〇分間隔で湾口を通過する。
その最後を日出一時間前とする。
四、筒は侵入後海底に沈座待機し、第一次空襲後攻撃に転ずる。艇長の判断により攻撃は日沈後でもよい、攻撃終了後フォード島を左に見つつ湾内を一巡して脱出する。
五、母潜水艦は日沈後ラナイ島西方七浬を中心として浮上待機、第一日収容不能の場合は翌日伊16、伊20はラナイ島西方、他の三隻は同島南方一〇浬附近に配備し格納筒搭乗員の収容に努める。
 途中太平洋のうねりの中で格納筒の整備に苦労を重ね12月7日夜予定海域に到着次の通り発進した。

母艦  時 刻   格納筒  真珠湾口からの距離(浬) 備 考
伊16  〇〇四二  横山艇  二一二度  七
伊22  〇一一六  岩佐艇  一七一度  九
伊18  〇二一五  古野艇  一五〇度 一二· 六
伊20  〇二五七  広尾艇  一五一度  五· 三
伊24  〇三三三  酒巻艇  二〇二度 一〇· 五    港外に座礁
 

 米側資料を主に日本側資料とを総合すると、酒巻艇を除く四艇はそれぞれ米艦艇に攻撃を敢行したが岩佐艇は港内で、横山艇はトラトラの奇襲成功電を伊16に打電後同じ港内で、広尾艇と古野艇のうち一隻は港口で、他の一隻は港外で撃沈された。酒巻艇はジャイロ故障のため港内に入り得ず座礁沈没、稲垣兵曹は戦死、酒巻少尉は人事不省のまま捕虜となった。


第二次特別攻撃隊


 第一次特別攻撃隊の結果に鑑み、次期作戦を実施すべきか否か論議が闘わされ当初軍令部は、㈠搭載潜水艦の行動の自由が奪われる、㈡港湾の防備が緒戦に比し益々厳しくなっている、㈢優秀な若人を生還のできない公算も多分にあるところに投入することはできない、という理由で気乗り薄であったが、部隊側は兵器の改善と乗員の訓練によって、なお相当の効果が期待できるとして計画が進められた。兵器の改善は、各部にわたって進められたが施回圏、惰力が大きいこと及び魚雷発射時に浮上することについては最後まで改良できなかった。潜水艦と甲標的一体となっての訓練が瀬戸内海西部において連日連夜行なわれた。


一、第二次特別攻撃計画の大要


ア、攻撃方面をインド洋、アフリカ東岸海域およびオーストラリア、ニュージーランド方面とし、第八潜水戦隊がこれに当る。
イ、インド洋方面には旗艦伊10、伊30、第一潜水隊の伊16、伊18、伊20を石崎司令官が直率して、ペナンに進出する。これを甲先遣支隊とする。格納筒母艦は日進。
ウ、オーストラリア方面には第三潜水隊の伊21、伊22、伊24および第一四潜水隊の伊29、伊27、伊28がこれに当り南洋群島トラック島に進出する。これを東方先遣支隊と称す。格納筒母艦は千代田。
エ、編成
  甲先遣支隊(石崎昇少将)
艦名 艦 長       特型格納筒        記 事
伊16 山田  薫 中佐 艇長 岩瀬 勝輔 少尉
            艇付 高田 高三 二曹
伊18 大谷 清教 中佐 艇長 大田 政治 中尉
            艇付 坪倉大盛嬉 一曹
伊20 山田  隆 中佐 艇長 秋枝 三郎 大尉  第一潜水隊司令
            艇付 竹本 正己 一曹  今和泉喜次郎
                         大佐乗艦
伊10 栢原 保親 中佐              飛行機搭載
                         第八潜水戦隊
                         司令官
                         石崎昇少将乗艦
伊30 遠藤  忍 中佐              飛行機搭載
  注1 飛行機搭載の伊10、伊30は先行してアフリカ東海岸の主要港湾を偵察した上、有力艦の在泊港湾に格納筒攻撃を指向する。
  注2 伊16、伊18、伊20はペナンで母艦日進から格納筒を搭載する。
  注3 給油艦報国丸、愛国丸は潜水部隊に対する洋上補給の任にあたる。
  

 東方先遣支隊(佐々木半九大佐)
艦名   艦 長       特型格納筒      記 事
伊22 揚田 清猪 中佐 艇長 松尾 敬宇 大尉
            艇付 都竹 正雄 二曹
伊24 花房 博志 中佐 艇長 八巻 悌次 中尉
            艇付 松本  静 一曹八巻艇故障の為(電池爆破)乗員は伴チームと替わる
伊27 吉村  厳 中佐 艇長 中馬 兼四 大尉
            艇付 大森  猛 一曹
伊28 矢島 安雄 中佐 艇長 伴  勝久 中尉 トラック島南方
            艇付 芦辺  守 一曹 にて筒未搭載で撃沈される。
                        伴艇はイ24に搭載
伊21 松村 寛治 中佐             飛行機搭載、第3潜水艦司令佐々木半九大佐乗艦
伊29 原田 豪衛 中佐             飛行機搭載、第14潜水艦司令勝田治夫大佐乗艦
  注1 総指揮を佐々木半九大佐とする。
  注2 伊21、伊29は先行して飛行機をもって主要港湾の偵察に任じ、敵
     有力艦の在泊港湾に格納筒の攻撃を指向する。
  注3 伊22、伊24、伊27、伊28はトラック島で母艦千代田から筒を搭載
     する。
オ、攻撃要領
(ア) 攻撃の時機は5月下旬乃至6月上旬の月明の期間とする。
(イ) 各母潜は攻撃目標の決定にもとづき何れの港湾にも即応して攻撃を集中し得る態勢をとる。
(ウ) いずれの港湾にてもおよそ港口から一〇浬圏に進入して格納筒を発進し飛行機搭載艦は一〇浬圏で監視に任ずる。
(エ) 格納筒の港口通過時刻は第一番艇を月出三〇分後とし、爾後三〇分間隔とする。
(オ) 各潜水艦は格納筒が港内に侵入して攻撃を開始したと認めたら収容地点につき、夜間水上昼間潜航状態にて艇員収容にあたる。
(カ) 収容地点はおおむね第一、第二の二カ所を定め、敵情によっていずれかに指定する。隊形は前方に母潜が四km間隔で一列に並びその後方六kmに飛行機搭載艦が四km間隔で並ぶ。
(キ) 格納筒発進の夜も加えて、二夜収容地点で待機し、第三夜以後は潜水艦を指定して移動捜索を令ずることがある。

二、攻撃の実施

 17年4月15日第二次特別攻撃隊は柱島に集結、山本連合艦隊長官、小松第六艦隊長官から死を急いではならない、各指揮官は攻撃効果確実と信ずる場合に限り格納筒を使用せよとの訓示を受け、翌16日出撃した。
 ア、甲先遣支隊格納筒                                                            秋枝艇岩瀬艇は17年5月30日デイエゴ・スアレス港口から一〇浬の地点で母潜から発進、港内に侵入英戦艦ラミリーズ(大破)及びタンカー、ブリティッシュロイヤルテイ号(六九九三噸、撃沈)を攻撃した。攻撃後、港外に脱出した一艇が収容地点に向う途中坐礁、二人の搭乗員が陸路収容点に向う途中英軍と遭遇し銃撃戦の結果戦死した。大田艇は母潜故障のため攻撃に参加できなかった。
 イ、東方先遣支隊格納筒
指揮官佐々木大佐は現地の情況を検討し攻撃計画を次のとおり変更した。
(ア) シドニー港の攻撃日を5月31日とする。
(イ) 格納筒侵入順序は、伊27、伊22、伊24の順、港口通過時間は伊27 の筒が月出後三〇分、爾後二〇分間隔。
(ウ) 攻撃目標の選定は、各艇長所定

占領要地への派遣

 一 第二次特別攻撃隊以後はこの種港湾奇襲作戦は取止められ、占領した局地の防御用に充てられることとなった。
 ミッドウェー島攻略に当り、占領後に甲標的を配備する計画で、ミッドウェー作戦には千代田は甲標的八基を搭載し軍艦大和の後方を進んでいたが、同作戦中止とともに引き返した。
 二 キスカ島派遣部隊
 キスカ島占領に伴い、17年7月乙坂昇三中尉を隊長(18年4月国弘信治中尉に交替)とする甲標的隊、桜井技術大尉指揮の設営隊が母艦千代田に乗艦しキスカに進出した。甲標的は当初四基、後に六基、隊員は、当初五〇名、後約一〇〇名であった。
 キスカにおいては、北方特有の天候特に荒天と寒気に加えて、いよいよ激しくなってきた敵の爆撃下に隊員は基地の設営に当り特に標的引揚げ整備用の滑台レールの除砂作業に骨身を削って努力したが、折角除砂したと思えば一夜の荒天でレールは砂に埋もれてしまうということの繰返しで18年7月29日の撤退まで特筆すべき戦闘のないまま苛酷な環境下に苦労し、六隻の甲標的(28号、29号、31号、32号、34号ほか一艇)は撤退に際し爆破処分した。

ガダルカナル島周辺における戦闘
 

南東正面では、米・濠間遮断作戦の一環として重要な拠点として考えられていたツラギ島ガダルカナル島に昭和17年8月米軍が来攻し、これを奪い返すべく凄絶な攻防戦が展開された。
 17年9月米輸送船の攻撃のため基地を出て基地へ帰る甲標的の使用が考えられ、磯部秀雄中尉を長とする基地準備設営隊がガ島カミンボに派遣されたが、同方面の戦局苛烈となり基地作戦不能になるに及んで、潜水艦を母艦とする従前の局地侵入攻撃作戦に切替えられた。甲潜水部隊(指揮官大田信之輔大佐、伊16
、伊20、伊22、伊24の各潜水艦)がこれに当り11月7日から次のように攻撃が実施された。


 年 月 日  母潜水艦   甲 標 的      戦果等
 
17・11・7 伊 20 11号  国弘 信治 中尉 商船1隻撃沈(マ 生還
             井上 五郎 一曹 ラバ号二二二七噸)       
   
11・1  伊 16 30号  八巻 悌次 中尉 縦舵機故障  〃
             橋本 亮一 一曹
  11・19 伊 20 37号 三好 芳明 中尉 横舵機故障  〃
             梅田 喜芳 一曹
 11・23 伊 24 12号 迎  泰明 中尉 輸送船一隻撃 戦死
             佐野久五郎 二曹 沈の算大
  11・27 伊 16 10号 外  弘志 中尉 輸送船一隻撃沈 〃
             井熊 新作 二曹 (アルチバ号六一
                       九八噸) 
  12・2 伊  20 8号 田中 千秋 中尉 輸送船一隻撃沈 生還
             三谷  護 二曹 (命中音聴知)
  12・6 伊  24 38号 辻  富雄 中尉 攻撃するも不祥 戦死
             坪倉大盛嬉 一曹
  12・13 伊 22 22号 門  義視 中尉 攻撃するも確認 生還 
             矢萩 利夫 二曹 しえず
   注:甲標的はトラック島にて母潜に搭載出撃した。


 その後局面好転せず潜水艦は輸送作戦に重点を置くこととなった為、ガ島に対する甲標的作戦は12月18日取止めとなった。


丙型の建造と局地防備

 この当時甲標的はその存廃について岐路に立っていた。第二次特別攻撃隊以後港湾奇襲的用法は取止められ、ミッドウェー或はキスカ島の如く、港湾局地防御用に使用されたが、これも甲標的の兵器としての効果の優秀性を認められて強力に推進されたものでなく、そこに艇と乗員があったから他の艦艇の補備として使用されたものであり、ガ島戦における用法は差迫った戦局打開のため止むを得ず使用されたものであった。
甲標的部隊は、ガ島戦以後は陸上基地に中核となるべき要員のみを残し他は潜水艦等に転出せしめた。戦局の切迫により母艦及び潜水艦を拘置することは極めて困難となっていたのでその条件下での用法を考えると必然的に次のような考え方となった。
 即ち乗員の教育訓練を十分行なえば、防御兵器としてよく機能を発揮し得る。その為には母艦に替る機能を持つ陸上基地が必要であり、自力で長時間行動できる能力(自力の充電能力を持つ)が是非とも必要である。
 この考え方による部隊側の切望に応じ、18年7月甲標的乙型が試作され、さらにこれに改良を加えて18年9月甲標的丙型が誕生した。これの推進の中心となり実験の主搭乗員となったのは篠倉冶中尉と黒木博司中尉(後の回天の着想考案者であり回天で指導中殉職)であった。
 念願の航続力も五〇〇浬となり水上航走用、充電用の機関を搭載したため乗員も防御用として次の通り各地に進出した。


 年 月 指揮官     行先    隻数     記 事


18・11  門 義視大尉 ラバウル   5  何れも貨物商船により曳航して
進出。名倉司中尉艇のみ18・12ラバウル到着。逐次進出したその他の艇は被爆沈没、里正義艇日本近海にて被雷(曳航商船)沈没、西等艇は19・2ニューハノバー島付近で被爆自沈。他の一隻不詳。名倉艇は濠州軍に引渡す。


19・1 大友広四中尉 ハルマヘラ  1 ハルマヘラ付近にて味方機の誤爆により破損、修理できず自沈。

19・4 里 正義中尉 トラック島  5 里中尉艇及び松田幸四郎艇曳航商船の被雷により沈没、深佐安三中尉艇、後藤泰祐中尉艇外一隻サイパン着、サイパン戦にて戦死。


19・8 島 良光大尉 セ ブ 島 8 フィリピンにおける戦闘参照

  小島光造大尉 ダ バ オ 2 特に作戦することなく終戦
     篠倉 冶大尉 父   島 3 出撃の機会なく終戦
被爆により三隻共没沈
19・9  鶴田 伝大尉 沖   縄 8 沖縄の戦闘参照
 
20・1      マ ニ ラ 2 平井興治中尉被爆戦死後佐藤健
中尉交替。後藤脩中尉艇とともに終戦時中国海軍に接収される。


フィリピンにおける戦闘


 比島方面への甲標的の進出は、南東方面へ進出する甲標的が商船の曳航を主としたため、荒天、曳航商船の被害等により流失沈没したものもあり進出に大変な苦労が多かったことに鑑み、輸送艦艇に搭載進出した
ため全艇目的地に到着作戦に従事しえた。その進出状況は次の通り。
 
18年 8月 小島光造中尉指揮の二隻ダバオ
 
18年 9月 市川博中尉指揮の二隻サンボアンガ
 〃 10月 笹川勉中尉指揮の三隻セブ
 〃 12月 島良光中尉指揮の二隻セブ
 当初南西方面艦隊には甲標的をレイテ湾に使用の計画があったといわれるが、千代田艦長として甲標的隊育ての親ともいうべき原田覚少将が、第33特別根拠地隊司令官として現地にあり、甲標的の能力を知悉している同少将はサンベルナルジノ及びスリガオ海峡防備に重点を指向した。
20年1月サンボアンガ隊二隻もセブに回航島大尉の指揮下に入り、敵艦船のミンダナオ海からスルー海への航過が多くなるにつれ攻撃の重点をネグロス島南端とミンダナオ島北端にはさまれた海面に指向し、次表のような多大の戦果を挙げた。(米側発表なし)
 米軍がセブ島に上陸するに及び標的は自沈させ、甲標的隊員は陸上戦闘に移行した。


 年 月 日   場 所   戦 果   艇名     
 
19・12 ・8   オルモック港 駆逐艦×1  81号      
  12・18   ボホール島  輸送船×2  76号                                                 20・ 1・3  ミンダナオ海 駆逐艦×1   84号 
  1・5   〃    駆逐艦×1  69号  
   〃    〃    中型短タンカー×2 81号   
   〃    〃    タンカー×1(推定)82号   
   1・25   〃    大型タンカー×2  76号   
   〃    〃    水上機母艦×1 81 号   
   〃    〃    大型タンカー×1 84号
2・13   〃    大型駆逐艦×1 69号 
2・21   〃    大型巡洋艦×1  84号     
3・17   〃   大型タンカー×2 79号  
  3・21   〃   大型タンカー×1 84号 
3・23   〃   タンカー×1 78号

 艇  員

69号 島 良光大尉、川上鉄男上曹、鳥山千二上機曹
76号 渋田 清中尉、福田行治二曹、中武 巌一機曹
78号 丸山五郎兵曹長、安藤正治一曹、福田十郎上機曹      
79号 市川 博大尉、畑 孝太郎一曹、江口光男機長
81号 笹川 勉大尉、吉村元美上曹、瀬川 勉一機曹      
82号 水野相正兵曹長、村上信一一曹、島 豊 一機曹
84号 松田作一兵曹長、平松 治上曹、吉川末雄一機曹

蛟龍(甲標的丁型)の出現


 19年から米軍の攻勢は益々熾烈となり、前線内地を問わず防御態勢をとらざるを得なくなった。又連合国側に制海権制空権を奪われている状況下では、水上艦艇の行動は極めて困難となっていた。しかし、水中を活躍の場とし抗堪性のある潜水艦を所要数整備しようとすると、多くの資材が必要であり、又多数の乗員の養成に問題があるので、小型潜水艦の建造と甲標的の性能向上が真剣に考えられてきた。
 その結果、出来上ったものが甲標的丁型(後に蛟龍と称す)で航続距離も倍増し、乗員は五名となった。この丁型の計画については前出の黒木博司中尉の献策があずかって力があった。


沖縄の戦闘


19年8月那覇に進出した鶴田隊(丙型八隻)はその後本部(もとぶ)地区の運天を基地として、訓練、基地設営に寧日がなかったが、19年10月10日の米軍の空襲により、四艇が被爆沈没した。20年1月先ず花田賢司中尉、古賀英也中尉・伊与田規雄中尉(後に酒井和夫中尉と交替)の三艇、次いで、三笠清治中尉、飯田和信中尉、勝又祐一中尉の三艇、計六隻の蛟龍(甲標的丁型)が初めて配備のため沖縄に向った。然しながら蛟龍として初めての自力回航中、各種の故障が続出し、又途中で行先の変更もあり、沖縄に到着したのは酒井艇のみであった。さらに20年3月大河信義中尉、唐司定尚中尉の二艇が輸送船に搭載運天基地に増加さ
れた。20年3月23日米軍の沖縄侵攻に伴い、空襲により渡辺義幸大尉艇が被弾沈没。翌24日鶴田隊の特殊潜航艇は次のように部隊区分され、侵攻敵艦船攻撃の準備を完了、見敵必殺の意気込で待機していた。

第一小隊

一番艇(蛟龍209号)
(艇長)大河信義大尉、(艇付)青柳吉郎上曹、藤井 正雄上曹、小坂直行上機曹、松下実男上機曹

二番艇(蛟龍210号)
(艇長)唐司定尚中尉、(艇付)柿沼熊雄上曹、永瀬政一一機曹、中野守二飛曹、相馬明二飛曹

三番艇(丙型67号)
(艇長)河本猛七郎少尉、(艇付)日浦正夫上曹、金近他一二機曹

第二小隊

一番艇(丙型60号)
(艇長)川島厳大尉、(艇付)鎌形強上曹、高久満一曹 

二番艇(蛟龍208号)
(艇長)酒井和夫中尉、(艇付)遠藤敬一二曹、福原勇治上機曹、和田孝之二飛曹、松本  績二飛曹

三番艇(丙型64号)
(艇長)佐藤隆秋兵曹長、(艇付)長野重義一曹、松井成昌上機曹

 満を持していた鶴田隊は3月25日夜沖縄根拠地隊司令官の命により先ず第一小隊が出撃慶伊瀬島南方の敵艦船攻撃に向かった。河本艇は26日敵戦艦に魚雷二本命中させ帰投したが、大河・唐司艇は遂に帰らず。翌26日天号作戦が発動され、26日夜第二小隊が出撃、佐藤艇は27日残波岬の西六浬で巡洋艦に魚雷一本命中、川島艇は残波岬南西六浬で戦艦を攻撃したが、魚雷命中せず、両艇とも猛烈な反撃を受けようやく基地に帰投した。酒井艇は出撃直前に空襲を受け無念にも被爆沈没した。帰投した各艇は砲爆撃の間を縫って艇の整備に懸命の努力を続け、30日河本艇が出撃したが、故障のため、敵艦船に会わずに帰投。又川島艇は31日空襲避退時に岸壁に接触沈没。残った佐藤艇河本艇は4月5日夜出撃、警戒厳重なため大型艦船に近寄れず、護衛駆逐艦を攻撃した魚雷は命中せず4月6日基地に帰投した。米軍北上隊は既に運天に迫りつつあり、4月6日夜沖根司令部の命により二隻の標的(内一隻は行動不能となっていた。)を爆破処分し、隣接の第二七魚雷艇隊とともに、陸戦に移行した。
陸戦移行後鶴田隊は八重岳を中心とする戦場で勇戦敢闘し、大部の者は玉砕した。


奄美大島隊


 中平善司中尉艇及び橋本亮一(特務)少尉艇は二〇年四月加計呂麻島三浦基地に進出したが、一隻は被爆沈没一隻は攻撃の機会のないまま終戦を迎えた。