3. サイパン・硫黄島・本土上空の特攻 3. サイパン・硫黄島・本土上空の特攻

B -29との対決

 昭和19年7月、サイパン陥落以後、米軍は同方面に広大な飛行場を建設しつつあった。超空の要塞B-29がここに進出すれば、日本全土がその空襲圏に入るのである。陸海軍航空は、B -29対策に腐心していたが、比島に全力を傾注している関係もあって、その進渉は思わしくなかった。
 大本営は9月、おそくても10月下旬にはサイパンからの日本空襲が始まるであろうと判断していた。果たして11月1日、B-29機が関東地方を偵察した。高空を飛行雲を曳きながら飛行するB-29に、わが防空戦闘機は追い付けなかった。基地撃滅のほかB-29の空襲を阻止する方法はないと感じられた。
 
 2日夜、十機の中攻隊がサイパンとテニアンを空襲した。3日は陸軍の新海重爆隊八機がアスリート飛行場を奇襲して大戦果を報じた。6日の攻撃は中攻七機によるグアム、サイパン爆撃に続いて、新海隊の五機、司偵四機の池田隊がサイパンとテニアンを奇襲した。27日午前零時の新海隊三機のアスリート飛行場攻撃は奇襲が成功した。同日海軍の第1御盾隊(零戦)大村中尉以下十一名がアスリート飛行場に殴り込みをかけ大戦果を報じた。同隊は第3航空艦隊で編成された特攻隊である。

 中攻・重爆・更には特攻隊の基地攻撃にもかかわらずサイパンのB-29の東京空襲を阻止することは出来なかった。帝都防空に任じる吉田第10飛行師団長は、指揮下各戦隊に各四機の特別攻撃隊の編成を命じた。
特攻機からは防弾鋼板はもちろん機関砲さえ取り外して機体を軽くした。敵より高く上らなければ、体当たりも出来ないのである。一般の特攻攻撃と異なる点は、体当たりしても落下傘によって生還の可能性が絶無ではないことである。現実に飛行第244戦隊では四宮中尉と坂恒、中野伍長が体当たり撃墜後の落下傘降下に成功している。(四宮中尉は後に第19振武隊長として沖縄戦で散華した。)
 その後、B-29の空襲激化とともに、体当たり撃墜による特攻散華が増加する。11月24日飛行第47戦隊(2式単)の見田伍長が中央線沿線で、12月3日飛行第53戦隊(2式単)の澤本軍曹が三鷹付近で体当たりを敢行した。いずれも衆人環視のもとであって国民の感激を呼んだ。

 名古屋空襲に当たっては、その高空性能を生かして司偵が活躍した。
12月13日独飛16中隊の中村少尉が、18日同隊鈴木少尉以下四名が、22日も同隊高橋軍曹がいずれも名古屋上空で体当たり散華した。22日の空襲
では明野教導飛行師団のベテラン教官広瀬少佐と川上大尉が体当たり撃
墜しているのが注目される。
 B -29との対戦については、奉天上空の防空戦闘を忘れることが出来ない。
12月7日成都から奉天を襲ったB-29に対し飛行第104戦隊(2式単)の永田軍曹以下二名、独飛25中隊(2式複)の池田軍曹以下二名、および満軍飛行隊蘭花特攻隊(97戦)の春日中尉が体当たりを敢行した。更に12月21日再び来攻したB-29に対し、蘭花特攻隊の西原少尉が体当たり散華した。この後B-29は成都を去り、満州に対する爆撃はやんだ。


硫黄島

 B -29の本土空襲に当たり、これを妨害する硫黄島は目の上のこぶであった。それにB-29の損害を防止するためには戦闘機を随伴する必要があり、また傷付いたB-29を収容するためにも硫黄島が必要であった。
 昭和20年に入ると空襲が激しくなり、同島の飛行場利用は困難になった。2月19日6時ごろ米輸送船団は大挙して硫黄島南東沖合に進攻し、その数500隻に及んだ。これから3月25日に至る間、山形改まる大激戦が展開されるのである。2月21日香取基地を発進した第2御盾特別攻撃隊は、八丈島で給油ののち硫黄島周辺の敵艦船群に殺到した。村川大尉以下四三名、天山六、彗星十一、爆戦六、計二十三機である。空母1撃沈、同1大破、その他4隻に損傷を与える戦果であった。3月1日、八丈島に取残されていた、小林一飛曹以下二名が硫黄島周辺の艦船群に突入した。

 この後も活発な航空支援を実施したいのであるが、いかんせん比島に戦力を使い果たした陸・海軍航空にはその余力がなかった。硫黄島の将兵は善戦ののちに玉砕する。


再び本土防空戦闘

 昭和20年1月3日、B-29大編隊が名古屋を襲った。飛行第55戦隊の代田中尉、飛行第56戦隊の涌井中尉が3式戦をもってこれに体当たり散華した。1月9日、関東地方はまたもB-29の空襲を受けた。第5震天
制空隊の丹下少尉が小平付近で体当たり散華、東京上空では第2震天制空隊の栗村准尉以下二名が体当たり散華、他の二機は生還に成功した。
 これまでの攻撃は、主としてわが航空機工場に向けられていたが、下旬からは都市の無差別爆撃が開始された。1月27日、東京が空襲され、第5震天制空隊の高山少尉以下二名、第2震天制空隊の鈴木曹長および常陸教導飛行師団の小林軍曹以下二名が東京~千葉の間で体当たりを敢行して散華した。高山少尉は体当たり撃墜二機目である。
 2月10日、B −29約百機が北関東を襲った。飛行第47戦隊の吉沢中尉、第1錬成飛行隊の倉井少尉が太田市付近上空で、飛行第244戦隊の梅原伍長が筑波山上空付近で、それぞれ体当たりを敢行した。
19日、帝都にはB −29約百機が来襲して無差別爆撃を実施した。これを迎え撃つ飛行第53戦隊の広瀬少尉が山梨上空で、山田伍長が東京上空で体当たり散華した。

 3月9日の空襲による東京の焼失戸数は二十七万六千七百九十一戸にのぼる大惨害であったが、空襲が夜間の低空であったために、特攻隊の出番はなかった。
 3月16日夜、阪神方面では飛行第56戦隊歴戦の緒方大尉がB −29に体当たり散華した。
 4月に入ると沖縄作戦の激化につれて、マリアナからのB −29も猛威を振った。4月7日からはP−51が随伴するようになり、防空戦闘は困難を加えた。同日、第1錬成飛行隊の山本中尉が埼玉県上空で、飛行第18戦隊(3式戦)の小島少尉以下三名が東京西部地区においてB −29に体当たり散華した。
 4月17日、B −29の北九州空襲に当たっては、飛行第4戦隊(複戦)の山本少尉が福岡上空でB −29に体当たり散華した。
 6月、沖縄の基地整備につれて、同方面からの空襲も加わった。陸・海軍航空としては本土決戦に備えて、航空戦力を温存する方針を採った。

 しかし、戦闘隊は日本本土を敵機の蹂躙に委すに忍びなかった。5月7日、大分県上空で飛行第4戦隊の村田曹長が、同29日御前崎上空で飛行第5戦隊(複戦)の河田少尉が、6月7日独飛82中隊(司偵)の鵜飼中尉がそれぞれ敵機に体当たり散華している。そして最後に6月26日、飛行第56戦隊(3式戦)の中川少尉が名古屋上空で、飛行第
246戦隊(4式戦)の音成大尉以下二名が熊野灘上空において、B−29 に体当たり散華した。
 かくて、B −29に対する体当たり戦没者は四五名(四四機)にのぼった。