4. 闘魂の天地|沖縄決戦 4. 闘魂の天地|沖縄決戦

沖縄特攻の緒戦

 昭和19年10月3日、米統合幕僚長会議はニミッツ提督に対し、マッカーサー将軍の支援を受け、日本南西諸島(沖縄)の攻略を命じていた。その実行期日は昭和20年3月1日と予定されていたが、比島・硫黄島の日本軍の頑強な抵抗にあって4月1日に延期された。
 いっぼう、日本の大本営も米軍の企図を察し、昭和20年1月中旬、日満支を一環とする戦争遂行態勢を確保し、来攻する主敵米軍の進攻を破砕する作戦方針を内定した。作戦の主眼は、国防要域の確保と敵戦力の撃破におかれた。国防要域は本土と沖縄のような外周要域におかれた。
本土決戦は「決号」、周辺作戦は「天号」として計画されることになった。陸軍は「決号」を、海軍は「天号」を重視する傾向であった。
 1月20日、日本軍事史上初めての陸海軍同一の作戦計画が作成された。
しかし、海軍は沖縄を対象とする天一号を重視するのに対し、陸軍は天一号と同様に台湾に対する天二号作戦をも重視した。軍種の特性から生ずる作戦思想の相違によるものであろう。
 天号作戦のポイントは航空部隊の運用である。聯合艦隊は、西日本の第5航空艦隊に同方面の航空作戦を担任させた。比島で傷付いた第1航空艦隊は、台湾方面からそれを支援するのである。そして訓練部隊である第10航空艦隊には特攻訓練を急がせた。陸軍は新たに編成した第6航空軍を同方面に充当した。新編の同軍は戦力の充実と掌握を急いだ。重大問題は地上戦備であった。大本営は比島作戦のために第32軍から一コ師団を抽出したまま、その後を埋めていないのである。そのため、沖縄本島飛行場地区の守備が手薄になった。ここに米軍機が進出したら、特攻攻撃が非常にむずかしくなるのである。その間にも戦機は動こうとしていた。

 昭和20年1月15日、第1航空艦隊第1新高隊(零戦)の森岡一飛曹が馬公遙か南方の敵艦に突入した。次いで同月
21日、第3新高隊(零戦)の大添大尉以下四名が比島のツゲガラオを発進して台湾東方の敵機動部隊に、同じく
21日、1航艦零戦隊の堀口少尉以下二名、新高隊(艦爆)の西田中尉以下十名が台南を発進して台東東方洋上の敵機動部隊にそれぞれ突入している。比島攻略をあらかた終えた機動部隊が再び活動を開始しようとしているのである。
 3月11日、福田大尉の指揮する菊水部隊梓隊の新鋭・銀河二四機は鹿屋を発進し、2式大艇とともに、驚くべし、およそ三千キロを翔破して、米海軍根拠たるウルシー泊地を強襲した。目標到達は十五機であった。
梓隊戦没者としてその名をとどめたのは五十三名の多きにのぼる。しかし、梓隊の猛襲も敵の進攻を止めることはできなかった。
14日、有力な米機動部隊はウルシーを発進した。

 空母十数隻基幹の機動部隊が18日南九州19日四国、中国地方に来襲した。特攻兵力の温存に困難を感じた宇垣5航艦長官は、中央に連絡して反撃し、かつ追撃した。18 日には菊水部隊彗星隊(彗星一九、零戦五)平田中尉以下四十一名が第一・第二国分基地から、菊水部隊銀河隊(銀河八)宇野大尉以下二十四名が鹿屋及び築城基地から出撃して敵機動部隊に突入した。第5航空艦隊の指揮下にあった陸軍雷撃隊たる飛行第7・98戦隊も二回にわたって出撃し、多大の戦果を報じた。
 19日も、海軍特攻隊は九州南東海面に敵機動部隊を索めて出撃した。
第一、第二国分から発進した菊水部隊彗星隊の柏井大尉以下二十八名(一四機)、鹿屋、出水から発進した銀河隊金指大尉以下十五名(五機)が敵機動部隊に突入した。
 20日も果敢な攻撃を続行した。菊水部隊彗星隊の熊沢飛曹長以下十四名(七機)が第一・第二国分から、同銀河隊の坂口大尉以下六名(二機)が鹿屋・大分から出撃して九州南東海面の敵機動部隊に突入している。
 21日、敵機動部隊追撃のため桜花部隊に攻撃の命が下った。桜花の諸元は序章で述べた。問題は「桜花」を積んだときの陸攻の速度である。

 二、二〇〇瓩もの小型機を機外に懸吊しているのであるから速度はかなり低下する。当時の米軍レーダーには距離二〇〇粁で確実に捕捉され、敵戦闘機の集中攻撃を受けることになる。「桜花」発進の距離三〇粁まで、戦闘機の掩護が絶対に必要である。この日の神雷部隊は1式陸攻十八機(うち桜花十六)で野中五郎少佐が陣頭に立ち鹿屋を飛び立った。掩護戦闘機は三十機にすぎない。敵艦隊との距離約一〇〇粁と思われるころ、グラマン約五十機の邀撃にあった。わが戦闘機の防戦もむなしく、ついに陸攻が攻撃を受けるようになった。桜花の搭乗員はまだ移乗していな
いので、これを切り離して応戦した。しかし敵を前にしながら全機撃墜され、第一回の神雷部隊の雄図はむなしく消えた。特攻隊戦没者は桜花隊三橋大尉以下十五名のほか、攻撃隊野中少佐以下百三十五名、戦闘隊十名、計百六十名である。この日菊水部隊銀河隊の銀河十二機も鹿屋、出水、宮崎から出撃し、敵機動部隊に殺到した。河野中尉以下三十六名が特攻戦没している。

 この対機動部隊の戦闘では多大の戦果を報じたが、米戦史では空母四、戦艦二、巡洋艦一、駆逐艦一、その他六隻損傷を記録している。戦果としてはやや淋しいものであるが、敵の鉄壁の陣に飛びこむ強襲がいかにむずかしいものであるかを物語っている。
 3月20日、第6航空軍が南西方面作戦に関し、連合艦隊司令長官の指揮下に入った。陸海軍の航空戦力を統合して、難敵を撃破しようとするものである。しかし、この時第5航空艦隊の戦力は、先の戦闘によって既に消耗しようとし、第6航空軍はいまだ戦力の掌握に大童の状態であった。

敵上陸破砕の戦闘

 昭和20年3月23日、南方に退避していた米機動部隊は再び沖縄方面に来襲した。
24日になると艦砲射撃が始まった。小禄にあった彗星隊の米森上飛曹以下二名が、この敵に体当たりを敢行した。翌
25日敵大輸送船団が慶良間列島に入った。攻撃の好機ではあるが5航艦、6航軍ともにいまだ作戦準備が整っていなかった。ただ、小禄彗星隊の石川中尉以下二名、台湾方面からは忠誠隊(彗星)の軽部飛曹長以下二名、勇武隊銀
河の脇坂上飛曹以下九名(三機)がこの敵に突入して気を吐いた。
 26日聯合艦隊は天一号作戦を発動した。未明、石垣島に待機していた伊舎堂大尉の率いる誠第17飛行隊(99襲)六名と独飛23中隊(3式戦)の阿部少尉以下六名が慶良間列島の敵に突入した。翌27日未明には、満州から駆けつけた広森中尉指揮の武克隊九名が現地で編成された赤心隊谷川軍曹以下二名(99軍偵)とともに体当たりを敢行した。

これを見ていた第32軍神参謀は「隼のように降下する飛行機は吸いこまれるように次々に艦艇に命中する。火炎があがり爆風が艦をおおう……一瞬の静寂、何時の間にか山の彼方此方に一ぱい立っている兵や住民から一斉にどよめきに似た喚声があがる。熱湯が腹の下から胸に突き上げてくる……」
と回想する。この日海軍特攻隊も敵機動部隊を索めて出撃した。宮崎を発進した第1銀河隊の高橋中尉以下十五名(五機)は沖縄東方洋上の敵機動部隊に、第二菊水彗星隊の佐藤少尉以下十四名(九機)は沖縄付近の敵機動部隊にそれぞれ突入した。
 28日払暁、沖縄にあった赤心隊(99軍偵)鶴見少尉以下五名が那覇西方の敵艦船に突入した。このうち青木軍曹は地区司令部勤務であったが特に志願してこれに加わったものである。
29日には艦砲射撃が更に激しくなった。払暁発進する誠第41飛行隊(97戦)の隊長機以下五機が吹飛ばされ、高祖少尉以下四名が離陸、突入に成功した。宮崎からは第2菊水彗星隊の菊地中尉以下四名(二機)が発進し種子島南方の敵艦群に突入している。悪天候に阻まれて徳之島に不時着していた誠第39飛行隊(隼)が発進した。笹川大尉以下三名が突入に成功している。

 4月1日、連合軍は圧倒的な兵力をもって沖縄本島の西岸北・中飛行場正面に上陸を開始した。わが地上部隊は、敵の猛烈な火網に制圧されて見るべき抵抗が出来なかった。そして、わが航空もまた態勢を整えるいとまがなかった。それでも前線に到着したばかりのわが特攻部隊が攻撃を敢行するのである。
 鹿屋からは、第2神雷部隊桜花隊麓一飛曹以下三名、同攻撃隊宮原少尉以下十四名(二機)が沖縄周辺に炸烈した。6航軍各隊は攻撃を確実にするため徳之島に前進していた。未明、第20振武隊の山本少尉が慶良間付近の敵艦船群に突入、知覧からは第23振武隊の伍井大尉以下四名および飛行第65戦隊の久保軍曹が沖縄周辺の敵艦船群に突入した。
 台湾方面からは、海軍の忠誠隊(彗星)床尾中尉以下二名(一機)、大義隊(零戦)清水中尉以下四名が石垣島から発進して宮古島南方の艦船群に突入した。陸軍では飛行第17戦隊(3式戦)の平井中尉以下七名、誠第17飛行隊の久保少尉以下二名が石垣を発進して慶良間列島付近の敵艦船群に突入した。更に、九州の新田原にあった誠第39飛行隊(隼)の宮永少尉以下六名が直路沖縄西方洋上の輸送船団に必中体当たり攻撃を敢行した。

 2日、依然敵は上陸続行中であり特攻隊も攻撃を続行した。未明、徳之島からは第20振武隊(隼)長谷川大尉以下二名、飛行第66戦隊( 99 襲)高山中尉以下二名が沖縄西方海面の敵艦船群に突入、また、宮古飛行場を発進した誠第114飛行隊(2式双襲)の竹田少尉以下八名が中飛行場沖の敵艦船団突入に成功した。海軍では鹿屋から第2銀河隊の一機木村中尉以下三名が南西諸島東方の敵機動部隊に、神雷部隊第1建武隊(爆戦)矢野中尉以下四名も同方面の敵に突入した。石垣島からは第2大義隊(零戦)の伊藤中尉が沖縄方面で散華した。

 3日、海軍特攻は攻撃を続行する。第3銀河隊河合少尉以下九名(三機)は宮崎から、第2建武隊(零戦)西伊中尉以下六名は鹿屋から、第1国分からは第3御盾隊252隊(爆戦二、彗星二)本田中尉以下六名、第3御盾601部隊(彗星四)寺岡大尉以下八名が、それぞれ南西諸島東方洋上の敵機動部隊を索めて出撃、特攻散華した。

台湾方面からは忠誠隊(彗星)の時山大尉以下二名、第三大義隊(零戦)の山崎中尉以下三名が沖縄周辺に特攻突入した。なお石垣島からは、敵空襲の間隙をぬって4日第4大義隊の矢田上飛曹、5日第5大義隊の小林上飛曹以下二名の特攻散華が続く。陸軍では石垣を発進した飛行第105戦隊(3式戦)長谷川少尉以下六名が残波岬西方海面の大型輸送船団に突入、南九州万世からは第62振武隊坂本少尉以下二名、知覧からは第23振武隊前田少尉以下五名および第22振武隊の伊東少尉が、また新田原からは誠第32飛行隊の結城少尉以下六名が沖縄敵上陸点付近の敵艦船群に突入した。4日は天候不良で特攻攻撃はなく、5日知覧を発進した第21振武隊の須藤軍曹が直路沖縄に進出して特攻攻撃を敢行した。

 米海軍作戦年誌は、4月1日から5日までの損害を、高速輸送船1隻沈没、戦艦1隻、護衛空母1隻、輸送船8隻、高速掃海艇1隻損傷と記録している。わが攻撃兵力の少なさに比べれば偉大な戦果である。この時期、大兵力の集中使用が出来なかったことは残念であった。


菊水一号作戦


 わが特攻攻撃にもかかわらず、連合軍の上陸は進捗していた。哨戒、航空阻止の処置が強化され、わが特攻攻撃は3日ごろから著しく困難になった。このうえ敵に沖縄飛行場の使用を許すことになれば一大事である。聯合艦隊は、陸海軍航空全力による総攻撃開始を6日と決定した。この航空総攻撃の成果を利用して、戦艦大和以下が敵上陸地点に殴り込み、第32軍は攻勢に転じて敵を東シナ海に追い落す計画であった。
 4月6日早朝から航空総攻撃が開始された。この日沖縄方面に突入散華した特攻隊員は次のようである。( )内は出撃基地、機数。

九州方面からの海軍特攻

 菊水部隊天山隊(串良・天山九)斎藤中尉以下二十七名、第3御盾天山隊(串良・天山一)吉田少尉以下三名、第1八幡護皇隊艦攻隊(串良・97艦攻一四)山下大尉以下三十九名、第1護皇白鷺隊(串良・97艦攻一三)佐藤大尉以下三十九名、第1正統隊(第2国分・99 艦爆一〇)
桑原大尉以下二十名、第1草薙隊(第二国分・99艦爆一三)高橋中尉以下二十六名、第1八幡護皇隊艦爆隊(第二国分・99艦爆一五)寺内中尉以下十九名、第210部隊彗星隊(第一国分・彗星七)児玉大尉以下一四名、
第3御盾252部隊(第1国分・爆戦五、彗星四)宮本中尉以下十二名、第3御盾601部隊(第一国分・彗星)百瀬中尉以下二名、第1神剣隊(鹿屋・爆戦一六)松林中尉以下十六名、第1筑波隊(鹿屋・爆戦一七)福寺中尉以下十七名、第1七生隊(鹿屋・爆戦一二)宮武大尉以下十二名、第3建武隊(鹿屋・爆戦一八)森中尉以下十八名

台湾方面からの海軍特攻 

忠誠隊(新竹・彗星三)南一飛曹以下六名、勇武隊(台南・銀河三)根本中尉以下九名。以上のように、この日の海軍航空特攻戦没者は二百七十九名(一六一機)であった。

 陸軍の特攻戦没者は次のようである。
 第1特別振武隊(都城西)林少尉以下八名、第22振武隊(知覧)西長少尉以下二名、第43振武隊(知覧)浅川少尉以下五名、第44振武隊(知覧)小原少尉以下四名、第62振武隊(万世)富沢少尉以下四名、第73振武隊(万世)高田少尉以下十二名、誠第36飛行隊(新田原)住田少尉以下十名、誠第37飛行隊(新田原)小林少尉以下九名、誠第38
飛行隊(新田原)小野少尉以下七名、以上六十一名(4式戦八、隼一一、99襲一六、98偵二六、計六十一機)であった。
 海軍航空の特攻に対するすさまじい気魄が感じられる。陸軍も全力を傾注しているのであるが、兵力の集中がまだ進んでいない。
 海軍の水上特攻艦隊は6日午後突進を始めた。艦隊には直接掩護の戦闘機は付けられなかった。猛烈な航空特攻の続行によって敵機動部隊を釘付けにし、その間に沖縄への突入を敢行しようとするものである。従って7日も海軍特攻は果敢な機動部隊攻撃を続けるのである。

 宮崎からは第4銀河隊三木少尉以下十一名(四機)、第3御盾706部隊徳平少尉以下十五名(銀河五)が、第1国分からは第3御盾252 部隊富岡中尉以下五名(零戦五)、第3御盾601部隊国安大尉以下十九名(彗星十一)が、鹿屋からは第4建武隊日吉中尉以下九名(爆戦九)が出撃、沖縄周辺の敵機機動部隊を索めて突入した。陸軍では喜界島から第22振武隊の大上少尉、第46振武隊小山少尉以下五名、徳之島からは第44振武隊甲斐少尉以下二名、知覧からは第
29振武隊の中村少尉、万世からは第74振武隊伊藤大尉以下七名、第75振武隊大岩中尉以下四名、そして鹿屋からは司偵振武隊の竹中中尉以下二名が、沖縄周辺の敵艦船群にそれぞれ突入した。司偵は海軍に密接に協力していた。
 かくして、7日の突入は銀河九、彗星一一、爆戦一四計三十四機(五九名)、隼四、99襲一六、司偵二、計五十六機(八一名)であり、初日に比べれば兵力不足が目立つ。水上特攻艦隊はこの日の午後九州南西洋上で約三百機の集中攻撃を受け、戦艦大和以下が撃沈され、敵上陸地点突入の雄図はむなしく東シナ海に消えた。

 この後も陸軍特攻は上陸地点周辺の艦船に攻撃を続ける。8日、知覧から第29振武隊染谷少尉以下二名、第68
振武隊片山少尉以下二名、喜界島から第42振武隊の牛島少尉以下四名、石垣島からは誠第17飛行隊林伍長が、9日は喜界島から第42振武隊の猫橋少尉以下三名、第68振武隊の山口少尉が、石垣島からは飛行第105戦隊の内藤中尉が敵艦船群に突入した。

 このようにして航空総攻撃は不調のうちに終った。第32軍の反撃は成功せず、沖縄北・中飛行場にはすでに数十機の米軍機が進出していた。
しかし、敵に大打撃を与えたことは確実であり、聯合艦隊は次期総攻撃を4月10日と定めてその準備を進めた。

 菊水一号作戦の特攻機による敵艦船の損害は、米海軍作戦年誌によるだけで、沈没=高速掃海艇1隻、損傷=戦艦3隻、護衛空母2隻、軽巡2隻、駆逐艦6隻、高速掃海艇1隻、輸送船3隻、計20隻である。このほかにも敵輸送船団に、相当な打撃を与えたに相違ない。スプルアンス長官はニミッツ司令官に対し「敵の特攻攻撃の技量と効果とにかんがみ、さらに艦船の喪失と損傷の激増により、今後の敵の攻撃を阻止するため百方手を尽さざるを得ない状況である。ついては第二〇空軍を含む全可動機をもって、九州および台湾にある飛行場に対し全力攻撃を実施されたい。」と報告した。