第一編 特別攻撃隊の戦闘  第2章 陸海軍航空特別攻撃隊

4. 闘魂の天地|沖縄決戦 4. 闘魂の天地|沖縄決戦

沖縄特攻の緒戦

 昭和19年10月3日、米統合幕僚長会議はニミッツ提督に対し、マッカーサー将軍の支援を受け、日本南西諸島(沖縄)の攻略を命じていた。その実行期日は昭和20年3月1日と予定されていたが、比島・硫黄島の日本軍の頑強な抵抗にあって4月1日に延期された。
 いっぼう、日本の大本営も米軍の企図を察し、昭和20年1月中旬、日満支を一環とする戦争遂行態勢を確保し、来攻する主敵米軍の進攻を破砕する作戦方針を内定した。作戦の主眼は、国防要域の確保と敵戦力の撃破におかれた。国防要域は本土と沖縄のような外周要域におかれた。
本土決戦は「決号」、周辺作戦は「天号」として計画されることになった。陸軍は「決号」を、海軍は「天号」を重視する傾向であった。
 1月20日、日本軍事史上初めての陸海軍同一の作戦計画が作成された。
しかし、海軍は沖縄を対象とする天一号を重視するのに対し、陸軍は天一号と同様に台湾に対する天二号作戦をも重視した。軍種の特性から生ずる作戦思想の相違によるものであろう。
 天号作戦のポイントは航空部隊の運用である。聯合艦隊は、西日本の第5航空艦隊に同方面の航空作戦を担任させた。比島で傷付いた第1航空艦隊は、台湾方面からそれを支援するのである。そして訓練部隊である第10航空艦隊には特攻訓練を急がせた。陸軍は新たに編成した第6航空軍を同方面に充当した。新編の同軍は戦力の充実と掌握を急いだ。重大問題は地上戦備であった。大本営は比島作戦のために第32軍から一コ師団を抽出したまま、その後を埋めていないのである。そのため、沖縄本島飛行場地区の守備が手薄になった。ここに米軍機が進出したら、特攻攻撃が非常にむずかしくなるのである。その間にも戦機は動こうとしていた。

 昭和20年1月15日、第1航空艦隊第1新高隊(零戦)の森岡一飛曹が馬公遙か南方の敵艦に突入した。次いで同月
21日、第3新高隊(零戦)の大添大尉以下四名が比島のツゲガラオを発進して台湾東方の敵機動部隊に、同じく
21日、1航艦零戦隊の堀口少尉以下二名、新高隊(艦爆)の西田中尉以下十名が台南を発進して台東東方洋上の敵機動部隊にそれぞれ突入している。比島攻略をあらかた終えた機動部隊が再び活動を開始しようとしているのである。
 3月11日、福田大尉の指揮する菊水部隊梓隊の新鋭・銀河二四機は鹿屋を発進し、2式大艇とともに、驚くべし、およそ三千キロを翔破して、米海軍根拠たるウルシー泊地を強襲した。目標到達は十五機であった。
梓隊戦没者としてその名をとどめたのは五十三名の多きにのぼる。しかし、梓隊の猛襲も敵の進攻を止めることはできなかった。
14日、有力な米機動部隊はウルシーを発進した。

 空母十数隻基幹の機動部隊が18日南九州19日四国、中国地方に来襲した。特攻兵力の温存に困難を感じた宇垣5航艦長官は、中央に連絡して反撃し、かつ追撃した。18 日には菊水部隊彗星隊(彗星一九、零戦五)平田中尉以下四十一名が第一・第二国分基地から、菊水部隊銀河隊(銀河八)宇野大尉以下二十四名が鹿屋及び築城基地から出撃して敵機動部隊に突入した。第5航空艦隊の指揮下にあった陸軍雷撃隊たる飛行第7・98戦隊も二回にわたって出撃し、多大の戦果を報じた。
 19日も、海軍特攻隊は九州南東海面に敵機動部隊を索めて出撃した。
第一、第二国分から発進した菊水部隊彗星隊の柏井大尉以下二十八名(一四機)、鹿屋、出水から発進した銀河隊金指大尉以下十五名(五機)が敵機動部隊に突入した。
 20日も果敢な攻撃を続行した。菊水部隊彗星隊の熊沢飛曹長以下十四名(七機)が第一・第二国分から、同銀河隊の坂口大尉以下六名(二機)が鹿屋・大分から出撃して九州南東海面の敵機動部隊に突入している。
 21日、敵機動部隊追撃のため桜花部隊に攻撃の命が下った。桜花の諸元は序章で述べた。問題は「桜花」を積んだときの陸攻の速度である。

 二、二〇〇瓩もの小型機を機外に懸吊しているのであるから速度はかなり低下する。当時の米軍レーダーには距離二〇〇粁で確実に捕捉され、敵戦闘機の集中攻撃を受けることになる。「桜花」発進の距離三〇粁まで、戦闘機の掩護が絶対に必要である。この日の神雷部隊は1式陸攻十八機(うち桜花十六)で野中五郎少佐が陣頭に立ち鹿屋を飛び立った。掩護戦闘機は三十機にすぎない。敵艦隊との距離約一〇〇粁と思われるころ、グラマン約五十機の邀撃にあった。わが戦闘機の防戦もむなしく、ついに陸攻が攻撃を受けるようになった。桜花の搭乗員はまだ移乗していな
いので、これを切り離して応戦した。しかし敵を前にしながら全機撃墜され、第一回の神雷部隊の雄図はむなしく消えた。特攻隊戦没者は桜花隊三橋大尉以下十五名のほか、攻撃隊野中少佐以下百三十五名、戦闘隊十名、計百六十名である。この日菊水部隊銀河隊の銀河十二機も鹿屋、出水、宮崎から出撃し、敵機動部隊に殺到した。河野中尉以下三十六名が特攻戦没している。

 この対機動部隊の戦闘では多大の戦果を報じたが、米戦史では空母四、戦艦二、巡洋艦一、駆逐艦一、その他六隻損傷を記録している。戦果としてはやや淋しいものであるが、敵の鉄壁の陣に飛びこむ強襲がいかにむずかしいものであるかを物語っている。
 3月20日、第6航空軍が南西方面作戦に関し、連合艦隊司令長官の指揮下に入った。陸海軍の航空戦力を統合して、難敵を撃破しようとするものである。しかし、この時第5航空艦隊の戦力は、先の戦闘によって既に消耗しようとし、第6航空軍はいまだ戦力の掌握に大童の状態であった。

 

敵上陸破砕の戦闘

 昭和20年3月23日、南方に退避していた米機動部隊は再び沖縄方面に来襲した。
24日になると艦砲射撃が始まった。小禄にあった彗星隊の米森上飛曹以下二名が、この敵に体当たりを敢行した。翌
25日敵大輸送船団が慶良間列島に入った。攻撃の好機ではあるが5航艦、6航軍ともにいまだ作戦準備が整っていなかった。ただ、小禄彗星隊の石川中尉以下二名、台湾方面からは忠誠隊(彗星)の軽部飛曹長以下二名、勇武隊銀
河の脇坂上飛曹以下九名(三機)がこの敵に突入して気を吐いた。
 26日聯合艦隊は天一号作戦を発動した。未明、石垣島に待機していた伊舎堂大尉の率いる誠第17飛行隊(99襲)六名と独飛23中隊(3式戦)の阿部少尉以下六名が慶良間列島の敵に突入した。翌27日未明には、満州から駆けつけた広森中尉指揮の武克隊九名が現地で編成された赤心隊谷川軍曹以下二名(99軍偵)とともに体当たりを敢行した。

これを見ていた第32軍神参謀は「隼のように降下する飛行機は吸いこまれるように次々に艦艇に命中する。火炎があがり爆風が艦をおおう……一瞬の静寂、何時の間にか山の彼方此方に一ぱい立っている兵や住民から一斉にどよめきに似た喚声があがる。熱湯が腹の下から胸に突き上げてくる……」
と回想する。この日海軍特攻隊も敵機動部隊を索めて出撃した。宮崎を発進した第1銀河隊の高橋中尉以下十五名(五機)は沖縄東方洋上の敵機動部隊に、第二菊水彗星隊の佐藤少尉以下十四名(九機)は沖縄付近の敵機動部隊にそれぞれ突入した。
 28日払暁、沖縄にあった赤心隊(99軍偵)鶴見少尉以下五名が那覇西方の敵艦船に突入した。このうち青木軍曹は地区司令部勤務であったが特に志願してこれに加わったものである。
29日には艦砲射撃が更に激しくなった。払暁発進する誠第41飛行隊(97戦)の隊長機以下五機が吹飛ばされ、高祖少尉以下四名が離陸、突入に成功した。宮崎からは第2菊水彗星隊の菊地中尉以下四名(二機)が発進し種子島南方の敵艦群に突入している。悪天候に阻まれて徳之島に不時着していた誠第39飛行隊(隼)が発進した。笹川大尉以下三名が突入に成功している。

 4月1日、連合軍は圧倒的な兵力をもって沖縄本島の西岸北・中飛行場正面に上陸を開始した。わが地上部隊は、敵の猛烈な火網に制圧されて見るべき抵抗が出来なかった。そして、わが航空もまた態勢を整えるいとまがなかった。それでも前線に到着したばかりのわが特攻部隊が攻撃を敢行するのである。
 鹿屋からは、第2神雷部隊桜花隊麓一飛曹以下三名、同攻撃隊宮原少尉以下十四名(二機)が沖縄周辺に炸烈した。6航軍各隊は攻撃を確実にするため徳之島に前進していた。未明、第20振武隊の山本少尉が慶良間付近の敵艦船群に突入、知覧からは第23振武隊の伍井大尉以下四名および飛行第65戦隊の久保軍曹が沖縄周辺の敵艦船群に突入した。
 台湾方面からは、海軍の忠誠隊(彗星)床尾中尉以下二名(一機)、大義隊(零戦)清水中尉以下四名が石垣島から発進して宮古島南方の艦船群に突入した。陸軍では飛行第17戦隊(3式戦)の平井中尉以下七名、誠第17飛行隊の久保少尉以下二名が石垣を発進して慶良間列島付近の敵艦船群に突入した。更に、九州の新田原にあった誠第39飛行隊(隼)の宮永少尉以下六名が直路沖縄西方洋上の輸送船団に必中体当たり攻撃を敢行した。

 2日、依然敵は上陸続行中であり特攻隊も攻撃を続行した。未明、徳之島からは第20振武隊(隼)長谷川大尉以下二名、飛行第66戦隊( 99 襲)高山中尉以下二名が沖縄西方海面の敵艦船群に突入、また、宮古飛行場を発進した誠第114飛行隊(2式双襲)の竹田少尉以下八名が中飛行場沖の敵艦船団突入に成功した。海軍では鹿屋から第2銀河隊の一機木村中尉以下三名が南西諸島東方の敵機動部隊に、神雷部隊第1建武隊(爆戦)矢野中尉以下四名も同方面の敵に突入した。石垣島からは第2大義隊(零戦)の伊藤中尉が沖縄方面で散華した。

 3日、海軍特攻は攻撃を続行する。第3銀河隊河合少尉以下九名(三機)は宮崎から、第2建武隊(零戦)西伊中尉以下六名は鹿屋から、第1国分からは第3御盾隊252隊(爆戦二、彗星二)本田中尉以下六名、第3御盾601部隊(彗星四)寺岡大尉以下八名が、それぞれ南西諸島東方洋上の敵機動部隊を索めて出撃、特攻散華した。

台湾方面からは忠誠隊(彗星)の時山大尉以下二名、第三大義隊(零戦)の山崎中尉以下三名が沖縄周辺に特攻突入した。なお石垣島からは、敵空襲の間隙をぬって4日第4大義隊の矢田上飛曹、5日第5大義隊の小林上飛曹以下二名の特攻散華が続く。陸軍では石垣を発進した飛行第105戦隊(3式戦)長谷川少尉以下六名が残波岬西方海面の大型輸送船団に突入、南九州万世からは第62振武隊坂本少尉以下二名、知覧からは第23振武隊前田少尉以下五名および第22振武隊の伊東少尉が、また新田原からは誠第32飛行隊の結城少尉以下六名が沖縄敵上陸点付近の敵艦船群に突入した。4日は天候不良で特攻攻撃はなく、5日知覧を発進した第21振武隊の須藤軍曹が直路沖縄に進出して特攻攻撃を敢行した。

 米海軍作戦年誌は、4月1日から5日までの損害を、高速輸送船1隻沈没、戦艦1隻、護衛空母1隻、輸送船8隻、高速掃海艇1隻損傷と記録している。わが攻撃兵力の少なさに比べれば偉大な戦果である。この時期、大兵力の集中使用が出来なかったことは残念であった。


菊水一号作戦


 わが特攻攻撃にもかかわらず、連合軍の上陸は進捗していた。哨戒、航空阻止の処置が強化され、わが特攻攻撃は3日ごろから著しく困難になった。このうえ敵に沖縄飛行場の使用を許すことになれば一大事である。聯合艦隊は、陸海軍航空全力による総攻撃開始を6日と決定した。この航空総攻撃の成果を利用して、戦艦大和以下が敵上陸地点に殴り込み、第32軍は攻勢に転じて敵を東シナ海に追い落す計画であった。
 4月6日早朝から航空総攻撃が開始された。この日沖縄方面に突入散華した特攻隊員は次のようである。( )内は出撃基地、機数。

九州方面からの海軍特攻

 菊水部隊天山隊(串良・天山九)斎藤中尉以下二十七名、第3御盾天山隊(串良・天山一)吉田少尉以下三名、第1八幡護皇隊艦攻隊(串良・97艦攻一四)山下大尉以下三十九名、第1護皇白鷺隊(串良・97艦攻一三)佐藤大尉以下三十九名、第1正統隊(第2国分・99 艦爆一〇)
桑原大尉以下二十名、第1草薙隊(第二国分・99艦爆一三)高橋中尉以下二十六名、第1八幡護皇隊艦爆隊(第二国分・99艦爆一五)寺内中尉以下十九名、第210部隊彗星隊(第一国分・彗星七)児玉大尉以下一四名、
第3御盾252部隊(第1国分・爆戦五、彗星四)宮本中尉以下十二名、第3御盾601部隊(第一国分・彗星)百瀬中尉以下二名、第1神剣隊(鹿屋・爆戦一六)松林中尉以下十六名、第1筑波隊(鹿屋・爆戦一七)福寺中尉以下十七名、第1七生隊(鹿屋・爆戦一二)宮武大尉以下十二名、第3建武隊(鹿屋・爆戦一八)森中尉以下十八名

台湾方面からの海軍特攻 

忠誠隊(新竹・彗星三)南一飛曹以下六名、勇武隊(台南・銀河三)根本中尉以下九名。以上のように、この日の海軍航空特攻戦没者は二百七十九名(一六一機)であった。

 陸軍の特攻戦没者は次のようである。
 第1特別振武隊(都城西)林少尉以下八名、第22振武隊(知覧)西長少尉以下二名、第43振武隊(知覧)浅川少尉以下五名、第44振武隊(知覧)小原少尉以下四名、第62振武隊(万世)富沢少尉以下四名、第73振武隊(万世)高田少尉以下十二名、誠第36飛行隊(新田原)住田少尉以下十名、誠第37飛行隊(新田原)小林少尉以下九名、誠第38
飛行隊(新田原)小野少尉以下七名、以上六十一名(4式戦八、隼一一、99襲一六、98偵二六、計六十一機)であった。
 海軍航空の特攻に対するすさまじい気魄が感じられる。陸軍も全力を傾注しているのであるが、兵力の集中がまだ進んでいない。
 海軍の水上特攻艦隊は6日午後突進を始めた。艦隊には直接掩護の戦闘機は付けられなかった。猛烈な航空特攻の続行によって敵機動部隊を釘付けにし、その間に沖縄への突入を敢行しようとするものである。従って7日も海軍特攻は果敢な機動部隊攻撃を続けるのである。

 宮崎からは第4銀河隊三木少尉以下十一名(四機)、第3御盾706部隊徳平少尉以下十五名(銀河五)が、第1国分からは第3御盾252 部隊富岡中尉以下五名(零戦五)、第3御盾601部隊国安大尉以下十九名(彗星十一)が、鹿屋からは第4建武隊日吉中尉以下九名(爆戦九)が出撃、沖縄周辺の敵機機動部隊を索めて突入した。陸軍では喜界島から第22振武隊の大上少尉、第46振武隊小山少尉以下五名、徳之島からは第44振武隊甲斐少尉以下二名、知覧からは第
29振武隊の中村少尉、万世からは第74振武隊伊藤大尉以下七名、第75振武隊大岩中尉以下四名、そして鹿屋からは司偵振武隊の竹中中尉以下二名が、沖縄周辺の敵艦船群にそれぞれ突入した。司偵は海軍に密接に協力していた。
 かくして、7日の突入は銀河九、彗星一一、爆戦一四計三十四機(五九名)、隼四、99襲一六、司偵二、計五十六機(八一名)であり、初日に比べれば兵力不足が目立つ。水上特攻艦隊はこの日の午後九州南西洋上で約三百機の集中攻撃を受け、戦艦大和以下が撃沈され、敵上陸地点突入の雄図はむなしく東シナ海に消えた。

 この後も陸軍特攻は上陸地点周辺の艦船に攻撃を続ける。8日、知覧から第29振武隊染谷少尉以下二名、第68
振武隊片山少尉以下二名、喜界島から第42振武隊の牛島少尉以下四名、石垣島からは誠第17飛行隊林伍長が、9日は喜界島から第42振武隊の猫橋少尉以下三名、第68振武隊の山口少尉が、石垣島からは飛行第105戦隊の内藤中尉が敵艦船群に突入した。

 このようにして航空総攻撃は不調のうちに終った。第32軍の反撃は成功せず、沖縄北・中飛行場にはすでに数十機の米軍機が進出していた。
しかし、敵に大打撃を与えたことは確実であり、聯合艦隊は次期総攻撃を4月10日と定めてその準備を進めた。

 菊水一号作戦の特攻機による敵艦船の損害は、米海軍作戦年誌によるだけで、沈没=高速掃海艇1隻、損傷=戦艦3隻、護衛空母2隻、軽巡2隻、駆逐艦6隻、高速掃海艇1隻、輸送船3隻、計20隻である。このほかにも敵輸送船団に、相当な打撃を与えたに相違ない。スプルアンス長官はニミッツ司令官に対し「敵の特攻攻撃の技量と効果とにかんがみ、さらに艦船の喪失と損傷の激増により、今後の敵の攻撃を阻止するため百方手を尽さざるを得ない状況である。ついては第二〇空軍を含む全可動機をもって、九州および台湾にある飛行場に対し全力攻撃を実施されたい。」と報告した。

菊水二号作戦

 4月10日に予定されていた総攻撃は、天候に阻まれて12日に延期された。しかし喜界島および徳之島に前進した特攻、台湾方面からの3式戦による特攻隊は攻撃の手を緩めなかった。10日は徳之島第30振武隊の横尾伍長、11日は徳之島第22振武隊の柴田少尉、喜界島第46振武隊の米山伍長、台湾宜蘭からは飛行第19戦隊の大出少尉以下三名、第
105戦隊の神尾少尉以下二名が沖縄周辺の敵艦船に突入した。
 海軍も同11日、宮崎から第5銀河隊山本大尉以下十五名(五機)、第1国分から第210部隊彗星隊鈴木大尉以下四名(二機)、同零戦隊福地少尉以下三名、第3御盾252部隊本田大尉以下五名(爆戦五)、第3御盾601部隊安田二飛曹以下二名(爆戦二)、更に鹿屋からは第5建武隊(爆戦)矢口中尉以下十三名が沖縄東方洋上に敵機動部隊を索めて出撃、散華した。
 
 12日、攻撃の問題点は、沖縄中・北飛行場に進出した百機をこえる敵戦闘機の制圧であった。海軍の彗星と零戦は飛行場の銃爆撃を行ない、陸軍の重爆も暁暗をついて北・中飛行場を爆撃した。第32軍も重砲で飛行場を射撃した。また海軍の紫電三四機は喜界島上空で約七十機の敵戦闘機と激戦、多くの損害を蒙りながらも特攻隊の進路を開いた。
 鹿屋から飛立った第3神雷部隊桜花隊今井中尉以下八名(八機)、同攻撃隊野上中尉以下三十五名(陸攻五)が沖縄周辺の艦船群に突入し、第2七生隊(爆戦)田中中尉以下十七名は与論島東方洋上の敵艦船群に突入した。串良からは、第2八幡護皇隊艦攻隊芳井中尉以下三十名(艦攻一〇)第2護皇白鷺隊野元少尉候補生以下十二名(97艦攻)、常盤忠華隊西森大尉以下十八名(97艦攻六)、第二国分からは第2八幡護皇隊艦爆隊山口少尉以下十九名(艦爆一七)、第2草薙隊高橋少尉以下四名(99艦爆)、第一国分からは第2至誠隊(99艦爆)津久井少尉以下二名が沖縄周辺の敵艦船群に突入した。以上のようにこの日海軍の特攻戦没者は百四十二名(五十九機)である。
 

同日突入の陸軍特攻隊員は、知覧から第20振武隊穴沢少尉以下三名、第43振武隊岸少尉以下三名、第69振武隊池田少尉以下四名、第103振武隊石切山少尉以下十一名、万世からは第46振武隊の森少尉、第62振武隊滝口少尉以下三名、第74振武隊の橋本伍長、第75振武隊政井軍曹以下四名、第102振武隊天野少尉以下十一名、第104振武隊小佐野少尉以下五名、都城西からは第1特別振武隊(4式戦)伊藤少尉以下二名、そして鹿屋からは司偵振武隊東田少尉以下二名が沖縄周辺の敵艦船群に突入した。以上97戦四、隼六、4式戦二、99襲三四、百式司偵二、計四八機(四九名)
である。無線による突撃報告は、大部分の突入成功を思わせた。現地地上軍は十八機の突入を認めている。
 

 一方、第32軍の第一線陣地は六コ師団にのぼる連合軍に蚕食されつつあった。そして飛行場には約百九十機が進出していた。聯合艦隊は、戦局の打開を求めて航空特攻の続行を強行した。なお台湾からはこの日誠第26戦隊の神田少尉、誠第16飛行隊の上野軍曹が花蓮港東方洋上の敵機動部隊に突入している。

 4月13 日、喜界島から第30振武隊の池田伍長、第46振武隊の小林伍長、万世からは第74振武隊野口軍曹以下四名、第75振武隊の小野田伍長、第104振武隊長嶺小尉以下五名、知覧からは第103振武隊の岩井伍長、第107振武隊大内中尉以下五名が出撃、沖縄周辺に特攻戦没した。海軍では台湾方面から第9大義隊満田中尉以下二名(爆戦)が与那国島南方の敵艦船軍に突入している。
 4月14日、陸軍の特攻戦闘は喜界島から第29振武隊及川伍長以下二名にとどまるが、海軍は大挙して出撃した。鹿屋から第4神雷部隊桜花隊真柄上飛曹以下七名、同攻撃隊沢柳大尉以下四十三名(七機)、第2神剣隊(爆戦)合原中尉以下九名、第2筑波隊(爆戦)熊倉中尉以下三名、第6建武隊(爆戦)中根中尉以下六名、第1昭和隊(爆戦)鈴木中尉以下十名、以上八十一名(四十二機)が発進して主として沖縄東方洋上の敵艦船群に突入戦没している。石垣からは第10大義隊(爆戦)粕谷中尉以下二名が沖縄周辺の敵艦船に突入した。
 15日菊水二号作戦を終了した。この日の特攻戦没は陸軍では喜界島から第30振武隊の今井伍長、第46振武隊の中林伍長の二名。海軍では第2国分から第3御盾601部隊(零戦)岸中尉以下二名、計四名にとどまった。
 

 このころの米艦艇の状況を、米戦史は次のように記している。

「損傷艦艇で慶良間列島の錨地は身動きも出来ない。太平洋を横断する航路という航路には、足をひきずってアメリカに戻る損傷艦船の航跡が後を断たない。それでも艦艇は戦場を死守しようとしてやって来た。

 太平洋は一方交通ではない。損傷艦艇は続々東に向かう。しかし、それを補充する人と艦は、絶え間なく西へ西へと戦場に流れ動く。中部太平洋から、北部太平洋から、駆逐艦が叩き潰されたピケットラインの哨戒を肩替りするため沖縄進出を命じられる。
 短期作戦によって沖縄の勝利を獲得する望みは、もう今となっては雲散霧消してしまった。」

菊水三号作戦

 四月中旬、米軍の無線傍受で、特攻による艦船の大損害に耐えず沖縄からの撤退を考慮していることを知った。第32軍は第一線主陣地を固守していた。息をもつかせぬ特攻の継続だけが現戦局を打開しうるものと観察された。次の総攻撃の開始は4月16日と決まった。
 15日夕刻、4式戦十一機が海軍戦闘隊と協同して飛行場に対する焼夷弾攻撃を行ない、重爆四機は同夜沖縄中・北飛行場を爆撃した。現地地上軍から大戦果の通報があった。
 16日早朝から特攻隊が発進した。鹿屋からは第5神雷部隊桜花隊宮本中尉以下五名(五機)、同攻撃隊佐藤上飛曹以下二十八名(陸攻四)、第7建武隊森上飛曹以下九名(爆戦九)、第8建武隊石田一飛曹以下五名(爆戦五)、第2昭和隊草村少尉以下四名(爆戦四)、第3昭和隊中村少尉以下三名(爆戦三)、第4昭和隊有村少尉以下二名(爆戦二)、第3七生隊町田少尉以下三名(爆戦三)、第4七生隊石橋少尉以下九名(爆戦九)、第3神剣隊林田飛曹長以下三名(爆戦三)、第4神剣隊の長谷部二飛曹(爆戦)、第3筑波隊中村中尉以下七名(爆戦七)以上計七十九名(五五機)が出撃し、沖縄周辺および喜界島東方洋上の敵艦船群に突入した。宮崎からは第6銀河隊橋本中尉以下二十四名(八機)が出撃して喜界島南方洋上の敵機動部隊に突入した。出水からも第7銀河隊小林中尉以下十二名(四機)が出撃して同目標に突入している。串良からは神風特別攻撃隊皇花隊畑中尉以下十一名(97艦攻四)、菊水部隊天桜隊村岡中尉以下二十四名(天山八)、第3八幡護皇隊艦攻隊石見中尉以下六名(97艦攻二)、第3護皇隊白鷺隊栗村少尉以下六名(97艦攻二)が出撃して嘉手納沖の敵艦船群に突入した。第一・第二国分からは第3御盾601部隊青木中尉以
下二名(爆戦二)、第2菊水彗星隊岩見少尉以下七名(三機)、第3八幡護皇艦爆隊松場少尉以下二十三名(99艦爆一七)が出撃して喜界島南方あるいは嘉手納沖の艦船群に突入した。以上のようにこの日の海軍航空特攻戦没者は百九十四名(一〇五機)にのぼる。


 陸軍では知覧から誠第36飛行隊の嶽山軍曹、誠第38飛行隊の宇野少尉、第40振武隊石倉少尉以下六名、第42振武隊の篠田少尉、第69振武隊の本島少尉、第79振武隊山田少尉以下十名、第106振武隊清原少尉以下九名、第107振武隊山本少尉以下九名、第108振武隊真鍋少尉以下十一名が、万世からは第75振武隊の梅村伍長が出撃、沖縄周辺の敵艦船群に突入した。
機数は97戦三七、99高練一二、99襲二、計五一機で練習機の使用が目立ち、劣性能を補うため早暁の攻撃に徹した。無線傍受によれば攻撃成功の感触であった。
 台湾方面からは忠誠隊宮崎大尉以下二名(彗星一)が石垣島南方の、誠第33飛行隊(四式戦)の持丸少尉が嘉手納沖の敵艦船群にそれぞれ突入している。
 
 17日は前日の特攻で兵力が枯渇していた。出水から第8銀河隊吉川二飛曹以下二名(一機)、第一国分から第3御盾
601部隊岡田中尉以下九名(彗星四、爆戦一)、同252部隊福元少尉以下六名(彗星五、爆戦一)がそれぞれ喜界島東南方洋上の敵艦船群に突入した。鹿屋からは陸軍飛行第62戦隊のさくら弾と4式重が出撃した。さくら弾は4式重の機体中央に直径1.6m、重量2.9tの爆弾を積んで機体そのものを爆弾にしたものである。この二機は沖縄東方洋上に空母を発見して突入した。特攻戦没は加藤中尉以下八名である。
 台湾からは第2大義隊斉藤飛曹長以下二名(爆戦二)が台湾東方の敵艦船群に突入、19日には石垣島から飛行第
19戦隊の根本少尉以下二名が沖縄周辺の艦船群に突入した。
 かくて菊水三号作戦は終了した。

菊水四号作戦(第四、第五次航空総攻撃)


 4月下旬、沖縄基地の米軍機の制空範囲が拡大し、沖縄各地のレーダー網が充実するにつれて、徳之島、喜界島、宮古島、石垣島など前進基地の使用が困難になった。しかし、第32軍は主陣地付近で健闘しており、また航空特攻の戦果は絶大なものと信じられていた。第四次航空総攻撃の開始は4月22日と決まった。
 
 4月22日午後天候の回復をまって、知覧からは誠第31飛行隊の長谷部伍長、第80振武隊杉戸少尉以下十一名、第
81振武隊片岡中尉以下十一名、第105振武隊林少尉以下六名、第109振武隊菊地少尉以下四名が、また国分からは第
79振武隊の池田少尉が沖縄周辺の敵艦船群に突入した。 台湾方面からは飛行第19戦隊渡部少尉以下三名、誠第119飛行隊竹垣少尉以下五名が突入した。以上99襲一機、99高練二三機、97戦三機、3式戦三機、2式複戦五機計四十二機(四十二名)である。特攻諸隊は戦場付近の煙霧を利用し、低空からの接敵突入に成功した。海軍では第一国分から第3御盾252部隊(彗星二爆戦一)金山上飛曹以下三名が奄美大島付近の敵艦群に突入している。
 23日悪天候をついて知覧から第103振武隊の大野少尉、徳之島から第105振武隊の日下伍長が沖縄周辺の敵艦船群に突入した。日下伍長は同隊の藤野軍曹に護られて徳之島に着陸したのち同島から出撃した。
 その後も悪天候を縫って陸軍特攻の出撃は続く。
 26日、第81振武隊の橋本軍曹、飛行第110戦隊(4式重二機)今津大尉以下八名が嘉手納沖の敵艦船群に突入した。
27日知覧から誠第36飛行隊の下手曹長、第80振武隊の渡辺曹長、第109振武隊の武田軍曹、台湾からも残雨をついて誠第33飛行隊の福井少尉以下五名が出撃して沖縄周辺の敵艦船群に突入した。


 このころ第32軍は敵の重圧を受けて戦線を収縮していたが、雌雄を決する総攻撃を4月28日と定めて通報して来た。陸海軍航空は、これに呼応する総攻撃を決行した。陸軍ではこれを第五次航空総攻撃と呼んでいる。この日移動性高気圧は東シナ海にあり、九州は快晴、西南諸島一帯は晴、台湾東部には雨が残った。
 海軍特攻は大挙して出撃した。鹿屋からの第6神雷部隊桜花隊の山際一飛曹、串良から神忠隊(97艦攻三)清水少尉以下九名、第1正気隊(97艦攻二)須賀少尉以下六名、白鷺赤忠隊(97艦攻一)後藤少候以下三名、第二国分から第3草薙隊(99艦爆一四)永尾中尉以下二十六名、第二正統隊(99艦爆六)後藤中尉以下十二名、託間から琴平水心隊(水偵)安田少尉以下三名、計六十(二十八機)が沖縄周辺の敵艦船群に、台湾方面からは忠誠隊の国房中尉以下二名(彗星)、第15大義隊の和田二飛曹、第16大義隊の今野中尉、以上三機が宮古島南方の敵艦船群に突入した。
 陸軍の特攻攻撃は日没前後三十六機で敢行された。特攻戦没者は次の三十四名である。都城東から第61振武隊岡本少尉以下七名、知覧から第67振武隊金子少尉以下六名、第76振武隊岡村中尉以下六名、第77振武隊須山少尉以下八名、第106振武隊榎本伍長以下三名、第108振武隊の川又軍曹、第109振武隊桐山伍長以下二名。万世からは第102振武隊の山口伍長。
そして台湾方面からの夜間奇襲攻撃は大戦果を報じた。誠第34飛行隊桑原少尉以下四名、誠第116飛行隊五味少尉以下二名、誠第119飛行隊中村少尉以下四名、飛行第105戦隊中村中尉以下四名、以上十四名(十四機)である。

 28日に予定されていた第32軍の総攻撃は、敵の猛烈な砲爆撃に阻まれて実現しなかった。それでも陸海軍航空特攻は、攻勢移転の準備を大いに助けていた。
 29日も特攻は続けられる。

 29日、海軍特攻は鹿屋から沖縄東方洋上の機動部隊を索めて発進した。
第9健武隊(爆戦一〇)多木中尉以下十名、第5七生隊(爆戦四)晦日少尉以下四名、第5昭和隊(爆戦八)木部崎少尉以下八名、第4筑波隊(爆戦五)米加田中尉以下五名が突入した。そして指宿からは琴平水心隊の佐藤少尉以下二名(水偵一)が沖縄周辺の敵艦船に突入した。
 陸軍では知覧から第18振武隊小西中尉以下六名、第19振武隊四宮中尉以下五名、第24振武隊小沢中尉以下四名、徳之島から第77振武隊の金子伍長が沖縄周辺の敵艦船に突入した。前記三特攻隊は第30戦闘飛行集団秘蔵の精鋭特攻隊であった。四宮中尉は関東地方でのB-29体当たり撃墜者としても知られていた。
 30日夜、台湾方面からの次の攻撃をもって4月における特攻攻撃を終わった。独飛第23中隊片山中尉以下二名、飛行第19戦隊栗田軍曹、但し夜間攻撃のため戦死の日付は五月一日になっている。


 いかに多くの若者を、この特攻作戦で失なったことであろうか。4月における戦績を米側戦史は七百機の特攻の来襲を報じ、米海軍作戦年誌は、艦船の沈没8隻、損傷116隻(空母5、戦艦8、巡洋艦2、駆逐艦55隻など)と記録している。米陸軍側の記録では、その損害はほぼその二倍になっている。チャーチルの回想録には英艦3隻の損傷を記録している。しかし沖縄周辺にひしめく千五百隻以上の連合軍艦船に対し、わが攻撃力は不足であった。連合軍は着々と沖縄に対し戦略的地歩を固めつつあった。
 いっぽう、軍中央部では特攻作戦は絶大な成果を収めつつあると信じていた。手をこまねいて、沖縄県民を、第
32軍を見殺しには出来ない。鬼となっても特攻は続けなければならなかった。特攻基地として、飛行機の轟音と爆撃の哨煙に明け暮れた南九州の花は、いつしか葉桜に変わっていた。


菊水五号作戦(第六次航空総攻撃)

 5月に入り、第32軍は敵の重圧下にあったが、その運命を賭ける攻勢移転の期日を4日と定め、航空の可能最大限の協力を要請した。第6航空軍は第5航空艦隊と協力する航空総攻撃の期日を4日と定め、これを第32軍に通報した。
 3日夕刻、先ず台湾方面からの特攻隊が発進した。陸軍では誠第35飛行隊藤山少尉以下五名、誠第123飛行隊の西垣伍長、飛行第10戦隊の北原見習士官、飛行第17戦隊下山少尉以下四名、飛行第20 戦隊島田少尉以下五名、以上1式戦五、3式戦四、4式戦五、2式複戦五、計十五機の精鋭の特攻突入である。海軍では帰一隊(天山一)土山中尉以下三名、振天隊(99艦爆二、艦攻一)村上大尉以下七名が沖縄周辺の敵艦船群に突入した。
 4日、早朝から海軍特攻は沖縄周辺の敵艦船に特攻攻撃を集中した。
鹿屋から第7神雷部隊桜花隊(桜花六)大橋中尉以下六名、同攻撃隊(陸攻五)勝又少尉以下三十五名、第5神剣隊(爆戦)磯貝中尉以下十五名、串良から白鷺陽武隊(97艦攻一)中西少尉以下三名、八幡振武隊(97艦攻三)鯉田少尉以下九名、第2正気隊(97艦攻二)五十嵐中尉以下六名、そして指宿からは琴平水心隊(94水偵十)確本少尉以下二十二名、第1魁隊(水偵九)宮村少尉以下十八名。なんと、水偵まで繰出して沖縄周辺の敵艦船上に炸烈したのである。台湾方面からは忠誠隊(彗星一)南上飛曹以下二名、振天隊(艦爆一)清岡上飛曹以下二名、第17大義隊(爆
戦六、零戦二)谷本中尉以下八名が主として宮古島周辺の敵艦船群に突入した。


 陸軍航空特攻諸隊も朝雲をついて各基地から発進した。同日の特攻戦没者は次のとおりである。知覧から第18振武隊の秋富軍曹、第19振武隊林少尉以下四名、第24振武隊三浦少尉以下二名、第42振武隊の岩崎少尉、第77振武隊の相花伍長、第78振武隊吉田少尉以下六名、第105振武隊石川伍長以下二名、第106振武隊の袴田伍長、第109振武隊加藤伍長以下二名、都城東から第60振武隊平柳少尉以下六名、万世から第66振武隊の毛利少尉以下三名、以上97戦一六、1式戦八、4式戦六、2式複戦二、計三十二機による特攻戦没者である。隊号に比し特攻隊員数が少ないのは、器
材の故障で取残されていた隊員が、必死で整備し得た特攻機で出撃したためである。同日、台湾方面からも猛烈な特攻攻撃を敢行した。特攻戦没者は次のとおりであった。

誠第34飛行隊金沢少尉以下六名、誠第120飛行隊畠山少尉以下三名、誠第123飛行隊の水越伍長、飛行第108戦隊の高村見習士官、飛行第19戦隊長沼少尉以下二名、飛行第105戦隊原少尉以下二名、以上4式戦九、3式戦四、2式複戦一、計十四機によるものであった。
 

 特攻隊の戦果を裏づけるように、午前11時、第32軍から次の電報が届いた。


軍ノ攻勢予定ノ如ク進展シ 右正面ニ於テハ敵動揺ノ徴アリ 目下戦場付近ノ艦砲射撃及航空銃爆撃極メテ低調ニシテ攻撃ノ必成ヲ確信シアリ 之我カ陸軍航空ノ絶大ナル協力特ニ昼間ノ艦艇攻撃及制空ニ依ルモノニシテ軍ノ攻勢進展ノ重大ナル素因ヲナセシモノト確信感佩ニ堪ヘス
 嘉手納沖〇八四三巡洋艦一隻撃沈、〇九〇〇巡洋艦又ハ駆逐艦三撃

沈、戦艦一炎上
 今後共直協的ニ有利ナル攻撃ノ持続ヲ望ム
 しかし4日正午ごろから戦線は逐次停滞した。攻勢による地上軍の損害は甚だしく、5日午後6時、牛島軍司令官は攻勢を中止して戦略持久に転移した。6航軍は全力を挙げて航空支援を強行して第32軍の危急を救いたいのであるが既に特攻余力がなかった。5月6日、準備し得た三十二機の特攻機は十三機しか飛び立てなかった。同日の特攻戦没者は、知覧から第49振武隊伊奈少尉以下三名、第52振武隊の鮫島少尉、第55振武隊伊藤少尉以下三名、第56振武隊池田少尉以下四名、以上十一名である。
 
 5月9日台湾方面から海軍の忠誠隊(彗星)中田上飛曹以下二名、同隊(99艦爆二)久保中尉以下四名、震天隊(艦爆二)中村中尉以下四名、第18大義隊(爆戦四、零戦一)黒瀬中尉以下五名、陸軍の誠第33飛行隊坂口少尉、誠第
34飛行隊前川少尉、誠第35飛行隊浅井少尉、誠第123飛行隊南出伍長、飛行第10戦隊野本少尉の五名、計二十名(一四機)が沖縄周辺の敵艦船に突入した。
 
 5月3日から9日までの航空特攻による損害を米海軍作戦年誌は沈没=駆逐艦3隻、損傷=空母1隻、水上機母艦1隻、駆逐艦6隻、測量艦1隻、掃海艇5隻、敷設艇3隻、輸送船1隻(計22隻)と誌している。
その他英空母等多くの艦船に打撃を与えた。先の第32軍の通報は、沖縄南部戦線から望見し得る範囲のものである。その沖合いにはなお多くの艦船が黒煙をあげていたであろう。その立ち昇る黒煙の一本一本が、若い生命を燃焼させた特攻隊員の魂の残映であった。そしてこの子を幸せにと願い育てた両親の夢は、この煙とともに消えた。


菊水六号作戦(第七次航空総攻撃)

 次の総攻撃開始は5月11日と決まった。沖縄飛行場を制圧するために、6航軍は義烈空挺隊の使用を上申したが、梅津参謀総長はこれを許さなかった。今回も敵機跳梁下の航空特攻を持続せざるを得ないのである。
 
 10日、月齢二十九の暗夜をついて、陸海軍の重・軽爆、陸軍の4式戦十五機が沖縄の中・北飛行場を攻撃して九カ所炎上を報じた。
 
 5月11日早朝、小雨をついて特攻隊は出撃した。陸海軍の戦闘機約九十機の掩護が部署されたが、やはり敵戦闘機に妨害されて突入は困難を極めた。
 その困難をおかして散華した海軍特攻隊員は次のとおりである。鹿屋から第8神雷部隊桜花隊(桜花三)高野中尉以下三名、同攻撃隊(陸攻三)古谷中尉以下二十一名、第10建武隊(爆戦四)柴田中尉以下四名、第6昭和隊(爆戦二)根本少尉以下二名、第7昭和隊(爆戦六)安則中尉以下六名、第7七生隊(爆戦)上月飛長、第6神剣隊(爆戦四)牧野少尉以下四名、第五筑波隊(爆戦九)西田中尉以下九名、串良から菊水雷桜隊(天山十)今井少尉以下三十名、宮崎から第9銀河隊(銀河六)深井中尉以下十八名、そして指宿から第2魁隊(水偵二)四方中尉以下五名、
以上百三名五十機である。陸軍では知覧から誠第41飛行隊の山田軍曹、第44振武隊の岡本少尉、第49振武隊小坂伍長以下二名、第51振武隊荒木少尉以下七名、第52振武隊下平軍曹以下三名、第55振武隊黒木少尉以下三名、第56振武隊朝倉少尉以下三名、第65 振武隊から桂少尉以下三名、第70振武隊佐久田少尉以下三名、第78振武隊の湯沢少尉、都城東から第60振武隊の倉元少尉以下三名、第61振武隊橋本少尉以下三名、以上97戦八、1式戦十六、3式戦六、4式戦六、計三十六機である。この日6航軍は八十機の特攻機を用意したが、空爆下の飛行機整備困難によって出撃が妨げられていた。
 
 12日、九州方面は天候不良で第3正気隊の97艦攻一機、堀江少尉以下三名が沖縄周辺の敵艦に突入したにとどまる。台湾方面からは陸軍の誠第120飛行隊萩野軍曹以下二名、誠第123飛行隊の加治木少尉、飛行第10戦隊の碓井少尉が沖縄周辺の敵艦船群に突入した。

 13日にも台湾方面からの特攻出撃は続いた。海軍の震天隊(97艦攻一)細谷中尉以下三名は沖縄周辺の敵艦船に、忠誠隊(艦爆五)元木中尉以下十名は種子島東方の敵艦艇群に突入した。陸軍でも夕刻雨をついて誠第31飛行隊山本中尉以下三名、誠第26戦隊須藤少尉以下三名が沖縄周辺の敵艦船群に突入した。この日敵艦載機の大群が南九州を荒し廻った。
14日の艦載機の攻撃も傍若無人であった。鹿屋から第11建武隊(爆戦五)楠本中尉以下五名、第8七生隊(爆戦三)藤田中尉以下三名、第6筑波隊(爆戦一四)富安中尉以下十四名が種子島東方洋上の敵機動部隊に突入した。午後福岡にあった司偵振武隊古山少尉以下三名(三機)が敵空母を求めて発進した。通信情報では突入成功のようであった。米軍作戦年誌によれば空母バンカーヒルと駆逐艦二隻の損傷が記録されている。
 

 その後も主として台湾方面からの特攻攻撃は続いた。5月15日、海軍の振天隊(97艦攻二、99艦爆一)沖山中尉以下七名、忠誠隊(艦爆二)深津少尉以下四名が沖縄周辺の敵艦船群に突入、17日にも忠誠隊(艦爆一)柿本少尉以下二名と陸軍の誠第31飛行隊高畑少尉以下二名、誠第26戦隊稲葉少尉以下四名および飛行第108戦隊の宮崎伍長が沖縄周辺の敵艦船群に突入した。
 18日九州知覧からの特攻戦没者は第53振武隊近間少尉以下八名、台湾方面から飛行第19 戦隊大立目少尉以下三名であった。
 20日、天候はやや回復したがところどころに雨が残った。知覧からは第50振武隊斉藤少尉以下九名、台湾方面からは飛行第204戦隊栗原少尉以下五名が突入に成功した。21 日には台湾方面から飛行第19戦隊沢田少尉以下二名、同第
29戦隊浅野少尉以下三名および誠第34飛行隊の北原少尉の突入成功が伝えられた。
 

 小兵力による特攻続行は成果が少ないように見えるが、次の総攻撃まで連続した攻撃によって敵を一日も休ませず、第32軍への攻撃をしっかりと拘束しているのである。また、小数機による奇襲的な攻撃は意外に大きな戦果を生んでいる。


菊水七号作戦(義号作戦と第八次航空総攻撃)


 沖縄の米軍航空基地を制圧することが、今後の特攻作戦を成功させ、ひいては第32軍の作戦を有利に展開するために絶対必要と判断された。
第6航空軍は義烈空挺隊の沖縄飛行場突入に連携して航空特攻を集中する作戦計画をたて、海軍と連絡して21日以降決行することを定めた。このために準備する飛行機は陸海軍の特攻百八十機を含む二百八十二機。

これが実行されれば沖縄戦開始以来最大の作戦規模となるはずであった。
 悪天候が続き、攻撃は24日に順延された。この日海軍、第12航空戦隊の水偵二機、檜和田少尉以下三名が指宿から、菊水部隊白菊隊(白菊八)野田中尉以下十六名が鹿屋から出撃して沖縄周辺の敵艦船に突入した。
台湾方面からは夕刻誠第71飛行隊渡辺軍曹以下六名が発進し、沖縄周辺の敵艦船に突入、敵の注意をこの方面にそらした。午後7時、義号部隊先導の飛行第60戦隊の杉森機が発進した。杉森機は着陸変針点に照明弾投下の後撃墜された。乗組は杉森大尉以下七名、義号部隊は午後10時ごろ沖縄中、北飛行場に着陸攻撃を敢行した。(空挺作戦については別に記述)義号部隊輸送の第3独立飛行隊の本作戦戦死者は、諏訪部大尉以下二十五名である。
 

 義烈空挺隊の突入によって、沖縄各飛行場は大混乱に陥った。
25日の総攻撃に備えて6航軍が準備した特攻機は百二十機、まさに攻撃の好機であった。しかし残念にも天候が悪化した。沖縄は雨で視界が極端に悪い。それでも技量に自信のある隊員七十機が九州各地から飛び立った。
しかし、突入電を発し得たものは二十四機にとどまった。この日の特攻戦没者は次のとおりである。


 知覧から第29振武隊の益子伍長、第49振武隊南部少尉以下二名、第50振武隊高橋少尉以下二名、第52振武隊中原少尉以下五名、第54振武隊葛西少尉以下六名、第55振武隊佐伯少尉以下二名、第56振武隊小沢少尉以下二名、第70振武隊朝倉伍長以下三名、第78振武隊樺島少尉以下三名、第105振武隊仲西伍長以下二名、都城東から第57振武隊伊東少尉以下十一名、第58振武隊の高柳少尉以下十名、第60振武隊の向井伍長、第61振武隊の新井伍長、万世から第
432振武隊増淵伍長以下二名、第433振武隊三瀬少尉以下五名、そして大刀洗から飛行第62戦隊のさくら弾溝田少尉以下八名である。以上97戦七、1式戦十四、3式戦九、4式戦二十四、4式重二、2式高練七、計六十三機六六名である。
 海軍では鹿屋から第5神雷部隊桜花隊(桜花三)秋吉上飛曹以下三名、同攻撃隊(陸攻三)永吉中尉以下二十一名、菊水部隊白菊隊(白菊一)坂本一飛曹以下二名、宮崎から第10銀河隊(銀河三)小口中尉以下八名、第二国分から第3正統隊(99艦爆一)安藤上飛曹以下二名、そして串良からは徳島第1 白菊隊(白菊十)須田少尉以下二十名が出撃し、沖縄周辺の敵艦船群に突入した。
 
 26、27日も陸海軍は航空総攻撃を続行した。25日の総攻撃は天候と敵機動部隊に阻まれて戦果は意に満たないものであったが、義烈空挺隊員が一人でも健在である限りその戦果を生かし、第32軍と同胞の危急を救うべく必殺の攻撃を続けたのである。両日の特攻戦没者は次のとおりである。
 
 26日、第21振武隊の水川中尉、第78振武隊の田宮少尉、第110振武隊田中少尉以下六名。
27日第72振武隊佐藤中尉以下九名、第431振武隊紺野伍長以下五名。同日、海軍では鹿屋から菊水部隊白菊隊の白菊十機、川田中尉以下二十三名が発進し、沖縄周辺の敵艦船に突入した。午後、米軍は日本軍空挺隊の全滅を公表した。二昼夜にわたる同隊の健闘に菅原軍司令官は深く頭を垂れた。


菊水八号作戦(第九次航空総攻撃)


 5月28日午前零時、大本営は第6航空軍を聯合艦隊司令長官の作戦指揮下から除いた。それは新司令長官小澤治三郎中将が、菅原航空軍司令官より後任であるとの理由からではあるが、裏面には沖縄作戦の山場は過ぎたとの大本営の戦略判断があったであろうと思われる。
 しかし、現地軍としては第32軍と沖縄県民を見殺しには出来なかった。陸海軍ともに予定の計画どおり、沖縄への猛烈な特攻を続ける。
28日、陸軍は特攻五十七機を戦闘機三十三機が掩護して進攻し、三十三機が突入成功を報じた。同日の特攻戦没者は次のとおりである。知覧から第45振武隊藤井中尉以下十名、第48振武隊鈴木少尉以下二名、第50振武隊の磯田伍長、第51振武隊の市川伍長、第52振武隊横山少尉以下三名、第54振武隊中西少尉以下三名、第55振武隊の大岩少尉、第
70振武隊浅見少尉以下三名、第213振武隊松下伍長以下二名、第431振武隊堀川少尉以下二名、都城東から第58振武隊の紺田少尉、第59振武隊大竹少尉以下三名、万世からは第432振武隊舟橋少尉以下八名、第433振武隊石川少尉以下五名。
以上1式戦十、3式戦四、4式戦四、2式複戦十、2式高練十七、計四十五機である。
 海軍の特攻戦没者は28日指宿から琴平水心隊(水偵四)山口少尉以下七名、串良から徳島第2白菊隊(白菊七)田中中尉以下十四名、29日徳島第3白菊隊(白菊四)北一飛曹以下七名であった。練習機を主体にした特攻であるが、手馴れた飛行機であり、天候気象を利用した果敢な攻撃を実行したことであろう。
 特攻隊員の決死敢闘にかかわらず、敵の防備は厳しく戦果は逐次減少した。地上軍もまた苦戦を続けていた。
27日、第32軍司令部は首里から逐次南下し、29日夜半摩文仁に移った。月末前後、首里、那覇は米軍の占領下に陥り、第32軍の第一線はその南に後退した。
 いっぽう台湾方面からの特攻も執拗に続けられていた。月末における特攻戦没者は次のとおりである。
29日海軍の振天隊(97艦攻二)、古川中尉以下四名、陸軍の飛行第20戦隊石橋少尉以下五名。30日誠第15飛行隊の半田伍長。
 かくて、5月における戦闘は終わった。


菊水九号作戦(第十次航空総攻撃)


 軍中央部では沖縄作戦の前途に見切りをつけ、本土防衛に全力を注ぎ始めていたが、現地航空部隊はそうはいかなかった。沖縄への航空特攻は執拗に続けられる。
 6月1日、万世から第433振武隊の小柳少尉、台湾からは飛行第20戦隊猪股少尉以下二名が沖縄周辺洋上に特攻戦没した。
 2日は天候不良のため攻撃はできなかった。このころ兵力三万に減じた第32軍は、縦深約五キロ、横広十キロ弱の奥尻地区に後退して徹底持久の陣を敷いていた。6航軍は海軍と協力する3日の航空総攻撃を準備するとともに、重爆六機による地上兵団への作戦資材投下を部署した。何としても沖縄の危急を救いたいのである。
 3日、天候が回復した。陸軍は特攻三十九、戦闘十七機で中域湾の敵艦船を攻撃したが、突入成功を報じ得たものは十三機であった。海軍は特攻六機を戦闘機六十四機で掩護して特攻を敢行した。同日の特攻戦没者は、陸軍では知覧からの第44振武隊の伊藤軍曹、第48振武隊堀少尉以下四名、第111振武隊鈴木少尉以下八名、第112振武隊西崎少尉以下九名、第214振武隊谷口伍長以下四名、第431振武隊の岡沢伍長、以上二十七名である。海軍では第二国分から第4正統隊(99艦爆三)関島中尉以下六名が沖縄周辺に散華した。


 その後は天候不良で九州方面からの出撃は途絶えたが、台湾方面から特攻が続行された。5日、飛行第17戦隊稲森少尉以下四名、6日飛行第20戦隊及川少尉以下四名、同第29戦隊中島少尉以下三名、誠第33飛行隊の草場少尉、以上の八名、そして7日には海軍の第21大義隊(爆戦)橋爪一飛曹以下二名が沖縄周辺の敵艦船群に突入した。
 こののちしばらくの間、台湾方面からの出撃はなかった。沖縄戦の終局につれて、台湾に対する上陸の懸念が強まったからである。
 しかし、6航軍は特攻を続行した。たとえ沖縄が陥るにしても、第32軍の持久戦を一日でも長く持続するために最後の一瞬まで特攻の手を緩めることが出来なかったのである。こののちの特攻戦没者は次のとおりである。
 
 6日、知覧から第54振武隊の岡本少尉、第104振武隊の宮川軍曹、第113振武隊高野少尉以下十名、第159振武隊高島少尉以下五名、第160振武隊豊島少尉以下三名、第165振武隊枝少尉以下五名、以上二十五名の乗機の主体は3式戦であり、相当の戦果を挙げたようである。
米海軍作戦年誌には、5日戦艦ミシシッビー、重巡ルイスヴィルの損傷を、6日は空母ナイトマベイ、敷設艦二隻の損傷を記録している。7日も折からの雨をついて万世から第63振武隊(軍偵)難波准尉以下六名が出撃、沖縄周辺の敵艦船に突入した。8日は天候が回復し、知覧から第48振武隊中島少尉以下二名、第53振武隊の河井伍長、都城東から第59振武隊野口少尉以下六名、万世から第141振武隊長井少尉以下二名、第144振武隊中島少尉以下二名、計十三名が特攻戦没した。
10日天候不良下に、知覧から第112振武隊杉山伍長以下二名、第214振武隊の金井伍長が出撃して特攻戦没した。
11日も悪天候をついて特攻を強行した。同日の特攻戦没者は次のとおりである。
知覧から第56振武隊の川路少尉、第159振武隊の磯部伍長、第215振武隊の麻生少尉、万世から第64振武隊渋谷大尉以下九名、第144振武隊の薄井少尉。
 その後は天候不良に妨げられて特攻隊の発進はできなかった。


菊水十号作戦(第十一次航空総攻撃)


 陸海軍の協力する次期航空総攻撃の開始は15日と定められたが、これも天候不良のため実行できなかった。一方、第32軍は敵の本格的な攻勢によって軍の組織的な戦闘は終末段階に入りつつあった。
18日、牛島軍司令官は大本営に訣別の電報を送った。
 陸海軍航空は21日から最後の特攻を送った。海軍では鹿屋から菊水第2白菊隊(白菊五)古賀中尉以下十名、串良から徳島第4白菊隊(白菊三)井上中尉以下六名、指宿から第12航戦水偵隊(水偵五)野路井中尉以下九名、練習機および水偵でありながら、最後に残された痛憤の特攻隊であった。陸軍は敵機による妨害を考慮して4式戦装備の特攻、都城東から第26振武隊相良少尉以下四機が発進、沖縄周辺の敵艦船に突入した。
 
 22日、沖縄戦最後の航空特攻が決行された。鹿屋からは第10神雷部隊桜花隊(桜花四)藤崎中尉以下四名、同攻撃隊(陸攻四)伊藤中尉以下二十八名、第1神雷爆戦隊川口中尉以下七名が、都城東からは第27振武隊川村中尉以下六名、第179振武隊金丸中尉以下五名が発進、沖縄本島南部洋上の敵艦船群に突入した。第32軍将兵への最後のそして尊い花束であった。
  23日未明、牛島軍司令官は長参謀長とともに摩文仁の丘で自決した。

 

その後の沖縄特攻


 沖縄地上軍玉砕の後も、陸海軍の航空特攻は九州からも、台湾からも決行された。戦略戦術上の見地からは、この特攻はあるいは無意味であったかも知れない。しかしこの地を本土上陸の足場とする米軍を許してはおけないし、また僚友に死に遅れた無念さも若い隊員の心を抑えることが出来なかった。
 6月25日、指宿から琴平水偵察(水偵二)椎根中尉以下五名、古仁屋から第12航戦水偵隊(水偵一)田所少尉以下二名、鹿屋から菊水第3白菊隊(白菊一)春木一飛曹以下二名が沖縄周辺に散華した。翌26日は、串良から徳島第5白菊隊(白菊五)三浦少尉以下十名が沖縄周辺の敵艦船群に突入した。更に27日、古仁屋から琴平水偵隊の杉田二飛曹が、28日同隊(水偵一)竹安上飛曹以下三名が沖縄周辺洋上に散華した。
 7月も、8月も体当たり攻撃は続く。1日第180振武隊宇佐美伍長以下二名は、都城東から4式戦を駆って慶良間泊地の敵艦船群に突入した。
3日第12航戦水偵隊(水偵一)須藤少尉以下二名が古仁屋を発進し、沖縄周辺の敵艦船群に突入した。
 台湾方面からは、7月19日、誠第31飛行隊の藤井少尉、誠第71飛行隊の中島伍長、飛行第204戦隊織田少尉以下四名が那覇西方の敵艦船群に突入した。そして海軍の第3龍虎隊三村上飛曹以下七名が陸中練七機を駆って宮古島から、
29日から30日にかけて沖縄周辺の敵艦船群に突入した。最後に8月11日、喜界島に残されていた爆戦二、第2神雷爆戦隊の岡島中尉以下二名が沖縄周辺の敵艦船群に突入した。


 四カ月余にわたる沖縄に対する特攻作戦は、このようにして終わりを告げた。
 日本海軍航空史は、アメリカ側から見た特攻機の戦果を次のように記述している。


 いかに神風攻撃が有効であったかを、戦争の終った時に知り得た。
比島作戦においては、神風攻撃の二六・〇八パーセントが戦果を挙げている。即ち延べ六百五十機のうち百七十四機が命中または至近弾となって奏効している。沖縄戦では比率は落ちて奏効率は一四・七パーセントであるが、機数が多く約千九百機であったから三百七十九機が戦果を挙げている。十カ月の特攻期間にアメリカ海軍損傷艦の四八・〇一パーセント、全戦争期間四十四カ月の沈没艦の二一・三パーセントは神風の戦果である。ハルゼー大将は自信ありげに神風の効果は一パーセントだと言っているが、実際にはその二十六倍の効果を挙げている。
 

 今日、沖縄周辺海面の波は穏かである。白いリーフに打寄せるさざ波、そして紺碧の海の平和さに往時を偲ぶことはむつかしい。それでも我々は、ここに多くの純真な若者の魂が眠っていることを忘れずにいたい。