第一編 特別攻撃隊の戦闘  第2章 陸海軍航空特別攻撃隊

5. 南方における航空特攻 5. 南方における航空特攻

比島作戦の敗北によって、日本軍の作戦地域は南北に分断された。南方の航空作戦は第3航空軍が主宰していた。
昭20年に入るとベンガル湾方面から英国機動部隊の動きが活発になった。各隊は特攻隊を編成して敵の来攻に備えた。


1月29日、パレンバン地区に百余機の艦載機が来襲した。七生翔輝隊、皇盾第1 ・第2 隊が先を争って発進した。積乱雲の間に敵機動部隊を発見しえた皇盾第2隊が「突入」の無電を発した。
しかし敵戦闘機と対空砲火の反撃により重爆六機の全機が撃墜された。やはり昼間の重爆単独攻撃は、特攻といえども無理であった。特攻戦没者は加藤少佐以下三十四名であった。


3月1 日、七生神翔隊(軍偵)の島田軍曹以下二名がスマトラ島サバン方面で敵機動部隊に突入戦没した。4 月11 日、敵機動部隊が再び出現した。同隊の座間中尉以下二名が体当たりに成功し、大型艦二隻の撃沈が報じられた。


4月21 日、マカッサルの輸送船にB-24 が来襲した。上空にあった臨時防空戦闘隊長白川大尉は、これに「夕」弾攻撃ののち体当たりを敢行して船団の危急を救った。

6月中旬、連合軍はボルネオに侵攻を開始した。 6月25 日飛行第61 戦隊の攻撃隊八機がジャワ島のスラバヤを発進した。
攻撃隊は七生神雷隊と命名され、帰還可能ならば生還を命じられた。三機が体当たりを敢行、他の五機は雷撃後無事離脱して帰還した。特攻戦没者は中島少佐以下二十四名、この中に海軍の衛藤少尉、尾川兵曹、大杉兵曹の三名が含まれる。バリクパパン守備隊は久方振りの大戦果を目撃した。


7月26 日、マレー半島西岸プーケット沖の英艦隊に七生昭道隊 (99軍偵) の徳永曹長以下三名が体当たりを敢行、轟沈一隻、撃破一隻の戦果を報じた。この夜敵艦隊は退避して再び姿を現わさなかった。南方における陸軍航空は高い志気を維持し、終戦に至るまでわが戦略要衝を敵手に委ねなかった。