会報第134号 巻頭言 会報第134号 巻頭言

公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会
理事長 藤田 幸生

 「崔三然」様とのお別れ

 崔三然様のご冥福を、お祈り申し上げます!

 令和二年に、「朝鮮半島(現北朝鮮)のご出身で、日本に在住されていた崔三然という知人」が、92歳で、ご逝去された。
ご遺族から、知らせを受けたが、葬儀等に参列できず、「弔辞」を書いて、お届けした。
後日、館山の自宅に、お嬢様から、直接、涙ながらのお礼電話を頂いた。お別れの時、彼の枕元で、私の書いた弔辞を、読んであげてくれたそうだ。私は、もらい泣きをした。
少し、崔三然様とのことを述べてみたい。
インターネットでも、崔さんのことは出ている。

 私が、崔さんに初めて出逢ったのは、2013年4月13日、土浦市のホテルで催行された「藤田多美子」女史の鎮魂式であった。
藤田多美子女史は、昭和15年11月28日に、22歳の若さで、当時、多発していた『航空事故の根絶』を祈願して、自ら「人身御供」となって、入水自殺されている方だ。
当時、崔さんは、日本陸軍のパイロットとして、訓練されていたという。このことをご存じであり、鎮魂式に、役員として参列されていた。私も、藤田多美子女史のことは、飛行学生の時から知っていた。というのは、命日が、私の誕生日でもあり、ご縁を感じて、知っていたのである。自分自身の「飛行安全の守り神」と、考えていた。という訳で、この鎮魂式に参列していたので、その場でご一緒、面談できたのであった。その時は、「朝鮮半島出身者にも、奇特な方が居られるのだな!」との、印象であった。

 次にお会いできたのは、「世田谷山観音寺」における「特攻観音」月例参拝の場であった。
幾度か、月例参拝にお出で頂き、お話しが出来た。同期生が、陸軍航空特攻戦死されていたのである。

 最後にお会いできたのは、東郷神社の会館で行われた、崔三然様の長寿祝いの会に、ご招待されたときであった。その時は、崔三然様のご家族皆さんでのお祝いであり、皆さんと面談できた。その場に、ご招待を受けたのである。その時は、幸せそうな崔さんであった。日本の各界の知人が、招待を受け集まってお祝いをしてさしあげていた。

 崔さんは、旧日本陸軍の操縦士であっ た。終戦後、韓国空軍に入り、朝鮮戦争 を戦い抜き、戦後、日本人として過ごし てこられている。日本人以上に、日本人 らしい方であった。 

 その崔三然様のご冥福を、心からお祈り申し上げます。合掌!


参考)平成2年5のインターネットから抜粋

昭和15年、相次ぐ戦闘機事故の根絶を願って水戸陸軍航空通信学校(現・水戸市住吉町)の井戸に身を投げ、「大空の女神」と呼ばれた藤田多美子さん=当時(22)=の鎮魂式が平成25年4月13日、土浦市内のホテルで開かれた。会場には、平成24年11月に陸上自衛隊霞ケ浦駐屯地に安置された藤田さんの胸像と遺影が置かれ、参列者は花を手向けて乙女の遺志を後世に語り継ぐことを誓った。

 水戸陸軍航空通信学校の井戸に、近くに住む藤田さんが身を投げたのは昭和15年11月28日。遺書には「大君の御楯(みたて)となれる益荒男(ますらお)の空の勇士にこの身捧(ささ)げん」と辞世の句がつづられていた。その行動はたたえられ、校内に胸像と歌碑が建てられたが戦後は撤去され、藤田さんの遺志も長く忘れ去られていた。

 この話を知った作家の拳骨(げんこつ)拓史さん(36)と水戸陸軍航空通信学校出身の崔三然(さい・さんぜん)さん(8)5が胸像などの安置を計画、平成24年11月に霞ケ浦駐屯地への安置が実現した。

 式典は日本郷友連盟茨城県郷友会が中心となって参列者を集い、遺族ら約80人が出席。日本郷友連盟の寺島泰三会長(80)は、「あなたの愛国の念に燃えた行動は、多くの戦士に勇気を与えた。戦後に忘れられたことは遺憾だが、駐屯地に安置され、式典が挙行されることは喜ばしい限り」と鎮魂の言葉を述べた。

 藤田さんの妹の増田芳江さん(91)は式典後の直会(なおらい)で、「感謝の気持ちでいっぱい」とあいさつし、「空の安全を願い、声が出ない姉の代わりに」と藤田さんの辞世の句を吟じた。

 拳骨氏は「(胸像などが)安置でき、最初のスタートラインに立てた。鎮魂に終わりはなく、今後、私たちのような若年が藤田さんの精神を継承していきたい」と話していた。