第5章 海上特別攻撃隊 第5章 海上特別攻撃隊

1.震洋

1 震洋整備の発端


 震洋は当初㊃艇と呼称された海軍唯一の水上特攻艇である。この特攻艇は艇首に二五〇瓩の爆装をした木造合板製の高速ボートで、敵の揚陸部隊が上陸点に進入する前後に、夜暗に乗じ集団をもって奇襲し、体当たり攻撃により船舶を撃沈するものであった。
 その採用の背景には、海軍の中における魚雷艇建造の行き詰りと、各地における日本軍守備隊玉砕の戦訓があった。
 昭和19年4月、軍令部総長は海軍大臣に対し「㊀から㊈」までの九項目からなる特殊兵器の実験製造を提案した。この提案の中で一人乗りの爆装高速艇は、㊃舷外機付衝撃艇として提示された。艦政本部で慎重な検討の結果㊃は㊅(正式名回天)と共に採用され、直ちに試作に取りかかった。


2 建造
 軍令部の構想にもとづき艦政本部の全面的な同意を得て、同第四部が主務となり設計を開始した。設計基準としては、船体は量産を考慮し木製とし、トヨタ自動車の四噸トラック特KCエンジンを改良強化して採用し、速力は二〇ノット以上三〇ノットを目標とした。爆装については、横須賀海軍工廠で模型に依る実験の結果、水上爆発でも約三〇〇瓩の㊃艇爆装で、水線下に三米の破口を生じ、商船を撃沈するとの結果を得た。爆薬は三〇〇瓩は搭載無理との理由で二五〇瓩となった。直ちに設計を終り建造に着手した。
 試作艇は木造艇五隻と極薄鋼板製二隻が試作された。木造艇は一型滑走艇で全長五米。魚雷艇の船型を基礎とした。
 試作艇は海軍記念日の5月27日に完成し運転が実施された。木造艇は計画通りの性能が確認され、量産が決定した。引き続き耐久耐波試験が行われ、欠陥のあった艇首を改良し全長を五.一米とした。(㊃艇改一型である。)
 ㊃艇は本来特攻艇であるが、設計の初期から、舵輪に固定装置をそなえ、航空救命胴衣を着た搭乗員は後方船外に脱出できるようにした。7月には七五隻が生産され以後海軍部内の各工廠、工作所、各地の民間軍需工場で生産が開始された。
 昭和19年8月28日、(内令兵七一)名称を震洋と称して正式兵器に採用された。乗員一名の一型の生産に続いて二人乗りの五型も試作に成功し生産された。その他試作艇であった震洋艇二型(水中翼「ハイドロフォイル」)ロケット推進の七型・八型があったが実用にいたらなかった。
 兵装は当初、一型は二五〇瓩の艇首爆装だけであったが、昭和20年1月には一二糎噴進砲(ロサ弾)二基を装備した。五型は二五〇瓩爆装、噴進砲二基の外、一三粍機銃一挺と一部無線電話装置を装備した。
 生産隻数は海外生産艇を除き、一型、五型を合わせて終戦迄に次の通り建造された。

(表)

次に一型艇と五型艇の要目を表一に外型三面図を図一に示す。

(要目表)
(図一)


3 要員の養成

 震洋の要員としては昭和19年7月5日、㊃艇第一次要員五〇隻分が発令され、同15日には第二次㊃艇要員講習が開始された。要員は指揮官、艇隊長、各隊長、搭乗員、本部員、整備員、特務隊員からなっていた。
 搭乗員予定者は他の特種兵器乗員と同様本人の志願を基本に採用した。指揮官ならびに艇隊長には、海軍兵学校、予備学生、予備生徒出身の兵科士官、その他の兵科士官、准士官から選抜された。基地隊長、整備隊長、本部付には一部士官のほかは兵曹長、機曹長が当たった。一般搭乗員は、初期には現役の兵科出身の下士官、兵から選抜されたが、後には各練習航空隊で航空機搭乗員として教育を受けていた甲種・乙種・特乙の飛行予科練習生の中から志願者を募集した。
 整備員は航空機整備員の余剰人員から採用する外、一般機関科員(普内・普発・普電など)および国桟二補桟の兵員飛行予科練習生を震洋整備員として教育することとした。


 搭乗員および整備員の教育は一カ月を標準として実施した。第一次・第二次・第三次及び第四次の一部の講習員は、乗員が横須賀の海軍水雷学校で、整備員は同じく海軍工機学校で教育した。しかし搭乗員訓練は集団でする編隊訓練である為に、船舶の航行が頻繁な東京湾では徹底した訓練ができないので、昭和19年8月1日長崎県大村湾所在の臨時魚雷艇訓練所川棚に水雷学校分校を設置し、魚雷艇訓練と併せて第三次講習員以降の訓練が開始された。第五次講習員から訓練期間が二カ月となった。講習は戦術戦務の大要、局地戦闘法、操縦法、航法、襲撃法、機構、性能、取扱整備の大要、基地設置、運搬法など、坐学及び実施訓練が昼夜にわたり実施された。


 夜間演習における高速訓練に対しては大村湾は狭いので、臨時魚雷艇訓練所の分遣隊を鹿児島湾江の浦におき、同地と大村湾の二カ所で訓練した。昭和20年3月1日、水雷学校分校は川棚突撃隊に改編されたが、従前の任務を継承し第十五次迄の講習が行われた。江の浦は第三十二突撃隊に改編された。
 横須賀海軍水雷学校の第一次講習から、川棚突撃隊の第十五次講習までに、震洋取扱講習を修了した隊数は、一型六八隊、五型四六隊、合計一一四隊であった。内一隊は川棚突撃隊付の嚮導隊であったが後に沖縄進出の一隊を継承した為に終戦時の編成表は一一三隊となっている。
 搭乗員講習は一般学校教育と異なり、部隊訓練を重視し、仮編成の部隊単位で行われたが、講習修了後(教育中)適宜の時機に、固有の部隊編成を行い総合訓練を実施した。
 搭乗員で講習を修了した者には昭和19年11月以降、特務士官および准士官は特修別を特攻術とし、下士官および兵は掌特攻兵として特攻術章が付与された。又11月以前に講習を修了した現在員にも適用された。


 震洋隊の編成は一型が、配属艇五〇隻、指揮官一名、艇隊長三名、搭乗員五〇名で一個部隊(十二隻ずつの四隻艇、一艇隊は四隻ずつの三小隊)、五型が配属艇二五隻、指揮官一名、艇隊長二名、搭乗員五〇名で一個部隊(八隻ずつの三艇隊、一艇隊は四隻ずつの二小隊)であった。昭和20年6月1日震洋隊編成が改正され、一型隊は、一型四四隻、五型四隻計四八隻、予備艇として一型四隻を加え合計五二隻とされた。五型隊は予備艇を含め二六隻配備された。
 部隊は突撃隊である搭乗員の外に、基地隊、整備隊、本部付からなり、総員約一九〇名前後であった。基地隊、本部付は各鎮守府の一般徴兵および志願の定員が充当された。


4 展開


 震洋隊が最初に進出したのは、小笠原諸島と比島方面であった。その後南西諸島、台湾、中国沿岸、海南島、舟山列島、国内各地、済州島等の基地に進出し、敵の来攻に備えた。震洋の講習が開始された直後、昭和19年8月8日大本営陸軍部と海軍部は、捷号作戦の作戦方針に従い、陸海軍特殊緊急戦備運用に関する協定を結んだ。
 陸軍側においても、震洋と全く同種の水上肉迫攻撃艇(㋹艇、後述)を大量に建造し、同年8月には海軍挺進戦隊を発足させ訓練を開始していた。陸軍㋹艇と海軍㊃艇を総合し㊇と略称し、㊇に依る兵力、戦法を「震天」と呼称する作戦協定であった。初期の震洋隊の配置決定も協定に準拠して行われた。
 震洋隊の進出に伴い設営隊による現地基地の整備が急がれた。震洋の格納はレール式隧道と隧道だけと、隠蔽分散式があり、海面に泛水するにはトロッコ式とリヤカー式がとられた。他に住居施設及び食料需品等の格納設備を必要とした。しかし進出した基地は未完成が多く、搭乗員が自分たちの手で整備を行う状況であった。
 展開は通常の海軍部隊の編成と異なり、海軍大臣が震洋を所定の部隊に供給する形式をとった。特攻隊の配備についての中央部の苦悩がうかがえる。そしてその運用については、現地指揮官が任意に攻撃決行を命令することを許されなかった。比島方面および南方諸島方面の戦況が悪化した昭和19年11月6日、大本営は大海指第四八五号をもって比島方面の震洋隊の使用許可を与え、同年11月15日大海指第四八八号をもって南方諸島方面においても震洋隊の使用許可を与えた。
 震洋隊の進出は海上輸送によるものが多かった。昭和19年9月以降、東支那海、南支那海およびルソン海峡は敵潜水艦による輸送船の被害が相ついだ。震洋隊もこの時期比島方面に進出を開始した。震洋隊の敵潜による被害は終戦迄に海没一型四隊、五型二隊、部隊一部海没一型五隊、輸送船は大破又は沈没したが兵員たちは配置についた隊一型三隊。このように相当数の戦死傷者と、多数の震洋艇を消失した。震洋隊戦死者数は終戦までに約二、五〇〇名であった。(未調査あり)
 昭和20年3月1日以降突撃隊が編成され、南は九州南端から宮崎、四国、駿河湾、伊豆半島、三浦半島、千葉南岸から宮城県野々浜に至る海岸線に特攻隊が配備された。終戦時には海外の基地を合わせて震洋艇約四、〇〇〇隻が配備され敵の来寇にそなえた。その編成は次の通りであった。


部隊番号 配属  配属地
(一型隊)

第1震洋隊 父島特根 父島  釣ヶ浜
第2震洋隊 父島特根 父島  宮ノ浜
第3震洋隊 母島警 母島  西浦
第4震洋隊 母島警 母島  東港
第5震洋隊 父島特根 父島  巽湾
第6震洋隊 10HF ボルネオ  サンダカン
第7震洋隊 3南遣司 比島  コルヒドール
第8震洋隊 3南遣司 比島  レガスピー
第9震洋隊 3南遣司 比島  コルヒドール
第10震洋隊 3南遣司 比島  コルヒドール
第11震洋隊 3南遣司 比島  コルヒドール
第12震洋隊 3南遣司 比島  コルヒドール
第13震洋隊 3南遣司 比島  コルヒドール
第14震洋隊 3南遣司 比島  海没解隊
第15震洋隊 3南遣司 比島  海没解隊
第16震洋隊 八丈島警 八丈島  洞輸沢
第17震洋隊 大島防 加計呂麻島  三浦
第18震洋隊 大島防 加計呂麻島  呑之浦
第19震洋隊 石垣島警 石垣島  川平湾
第20震洋隊 高雄警 台湾  高雄
第21震洋隊 高雄警 台湾  高雄
第22震洋隊 沖縄根 沖縄本島  金武
第23震洋隊 石垣島警 石垣島  宮良
第24震洋隊 馬公特根      馬公島
第25震洋隊 馬公特根      馬公島基隆
第26震洋隊 石垣島警 竹富  小浜島
第27震洋隊 11突 神奈川  三浦小網代
第28震洋隊 高雄警 台湾  海口
第29震洋隊 高雄警 台湾  高雄
第30震洋隊 高雄警 台湾  海口
第31震洋隊 高雄警 台湾  高雄
第32震洋隊 海南島警府 海南島  新村
第33震洋隊 海南島警府 海南島  三亞
第34震洋隊 32突 鹿児島  上甑島小島浦
第35震洋隊 香港特根 香港  南了島
第36震洋隊 香港特根 香港  南了島
第37震洋隊 廈門特根     廈門
第38震洋隊 石垣島警 石垣島  宮良
第39震洋隊 石垣島警     海没解隊
第40震洋隊 大島防 喜界島  早町
第41震洋隊 宮古島警 宮古島  平良
第42震洋隊 1.沖縄特根 沖縄本島  屋嘉
第42震洋隊 2.川根突     長崎牧島
第43震洋隊 高雄警     海没解隊
第44震洋隊 大島防 奄美大島  久慈
第45震洋隊 鎮海警府 済州島  城山浦
第46震洋隊 舟山島警 舟山島  摘若
第47震洋隊 32突 鹿児島  新城
第48震洋隊 35突 宮崎 延岡  土々呂
第49震洋隊 23突 高知 須崎  野見
第50震洋隊 23突 高知 土佐  宇佐
第51震洋隊 16突 静岡 南伊豆  小稲
第52震洋隊 舟山島警 舟山列島  泗礁山
第53震洋隊 32突 鹿児島  長崎鼻山川
第54震洋隊 33突 宮崎 日南  大堂津
第55震洋隊 12突 千葉 勝浦  鵜原
第56震洋隊 11突 神奈川 三浦  江奈
第57震洋隊 16突 静岡 下田  和歌浦
第58震洋隊 12突 千葉 銚子  外川
第59震洋隊 18突 千葉 館山  波左門
第60震洋隊 13突 三重  鳥羽
第61震洋隊 32突 鹿児島  垂水
第62震洋隊 川棚突 長崎  上五島 鯛之浦
第63震洋隊 32突 鹿児島  谷山
第64震洋隊 32突 鹿児島  垂水
第65震洋隊 川棚突 長崎  京泊
第66震洋隊 展開計画より削除
第67震洋隊 15突 静岡 江ノ浦  三津浜
第68震洋隊 12突 千葉  笹川


(5型隊)
第101震洋隊 高雄警     海没解隊
第102震洋隊 高雄警 台湾  淡水
第103震洋隊 海南島警 海南島  サルモン
第104震洋隊 舟山島警 舟山  盤嶼
第105震洋隊 高雄警 台湾  淡水
第106震洋隊 32突 鹿児島  指宿
第107震洋隊 香港特根 香港  南了島
第108震洋隊 廈門根 廈門  コロンズ島
第109震洋隊 川棚突 長崎  松島
第110震洋隊 川棚突 熊本 天草  茂串
第111震洋隊 大島防 喜界島  小野津
第112震洋隊 32突 鹿児島  間泊
第113震洋隊 廈門特根 廈門
第114震洋隊 舟山島警 舟山列島  菰茨島     
第115震洋隊 舟山島警 舟山列島  泗礁山
第116震洋隊 35突 宮崎 延岡  土々呂赤水
第117震洋隊 33突 宮崎 日南  大堂津
第118震洋隊 34突 佐賀 値賀(玄海)  外津浦
第119震洋隊 鎮海防 済州島  西帰浦
第120震洋隊 鎮海防 済州島  高山里
第121震洋隊 35突 宮崎 日向  門川
第122震洋隊 35突 宮崎 日向  美々津
第123震洋隊 32突 鹿児島  坊ノ津
第124震洋隊 32突 鹿児島 笠沙  片浦
第125震洋隊 32突 鹿児島 知覧   聖ヶ浦
第126震洋隊 33突 宮崎 南郷  外浦
第127震洋隊 23突 高知  御畳瀬
第128震洋隊 23突 高知 夜須町  手結
第129震洋隊 12突 千葉 勝浦  砂子浦
第130震洋隊 32突 鹿児島 笠沙  野間池
第131震洋隊 32突 鹿児島  川内川口
第132震洋隊 23突 高知  土佐清水
第133震洋隊 31突 鹿児島  喜入
第134震洋隊 21突 高知 大月  柏島
第135震洋隊 12突 千葉  安房小湊
第136震洋隊 15突 静岡 清水  三保
第137震洋隊 16突 静岡  南伊豆長津呂
第138震洋隊 17突 福島  小名浜
第139震洋隊 12突 千葉 銚子  飯沼
第140震洋隊 16突 静岡 東伊豆  稲取
第141震洋隊 17突 福島  小名浜
第142震洋隊 21突 高知 大月  柏浦
第143震洋隊 川棚突 天草  牛深
第144震洋隊 川棚突 天草  富岡
第145震洋隊 22突 徳島  阿波橘
第146震洋隊 14突 宮崎  宮戸室浜
高雄警 高雄警備府
他の警 警備隊
  根 根拠地隊
  防 防備隊
三南遺司 第三南遺艦隊司令部
  突 突撃隊(嵐部隊)


5 作戦

 昭和19年9月父島進出に始まり各地に配置された百十四個の震洋隊の中で、出撃命令を受け出撃したのは、フィリピンのコレヒドールに進出していた六隊と沖縄本島金武湾岸の二隊だけである。あとは上陸米軍との陸戦に巻きこまれた。コレヒドール島の諸隊(出撃隊も含め六隊)レガスピーの一隊が全滅に近い戦死者を出したほかは、基地進出途次の輸送船海没事故に遭遇した隊が十四隊前後、又震洋の爆発事故による被害を惹起した隊が五~六隊あった。敵機の機銃掃射による戦死者若干を出した隊が数隊あったが、大半の隊は基地で待機中に終戦を迎えた。比島方面および沖縄本島の作戦は次の通りである。


比島方面
 比島方面には第六震洋隊から第十五震洋隊までの十隊が、第三南遺艦隊司令部付として派遣された。配備基地並に数は、ミンドロ島ザンボアンガ三隊一五〇隻レイテ島タクロバン四隊(二〇〇隊)レガスピー三隊(一五〇隻)が予定され各基地の整備が急がれていた。
 震洋隊の進出は予定期日通り開始された。昭和19年9月23日ザンボアンガ配備の第六震洋隊が佐世保軍港を出発した。他の隊も引続き各編成地から進出を開始した。第六震洋隊は同年10月7日早朝マニラに到着した。同隊は戦況の進展に伴い、配備地がボルネオ「サンダカン」に変更となり、翌8日マニラを出港した。10月26日第九震洋隊が到着した。11月1日には第八震洋隊、第十震洋隊、第十一震洋隊が到着した。11月21日は第七震洋隊が予定より遅れて到着した。12月15日には最後の第十二震洋隊が到着した。第十三震洋隊は11月2日バシー海峡で敵潜水艦の雷撃を受け同月4日大破擱坐し、兵員のみ到着した。第十四震洋隊、第十五震洋隊は東支那海において11月12日と14日の二回にわたり敵潜の雷撃を受け14日01:40沈没した。両隊の生存者は川棚基地に帰隊の上解隊、再編成された。
 配備地進出の為待機地コレヒドールに集結したのは七隊であった。11月下旬第八震洋隊がレガスピーに進出を開始して、12月1日付第三十五警備隊の指揮下にはいった。同じ頃第十震洋隊がバタンガス方面に進出を開始した。石川大尉指揮の先発隊は無事到着したが後続隊は敵機の攻撃を受け頭部爆薬全部を消失したので、部隊はコレヒドールに帰島した。
 帰島艇は五十隻中五隻だけであった。残りの五隊は配備地の進出が不可能となった為コレヒドール島に配備された。
 12月20日マニラ方面海軍部隊編成替えに伴い、第三十一特別根拠地隊首席参謀板垣昴大佐がマニラ湾口防衛部隊指揮官となり、又水上特攻隊指揮官として南西方面艦隊参謀小山田正一少佐が任命されるにおよび六隊の震洋隊は其の指揮下にはいった。
 12月23日、コレヒドール島南岸で出撃準備中の震洋隊のうち、第七震洋隊の艇が火災を起こしてしまった。このため装備した爆薬が爆発し各艇はつぎつぎに誘爆して震洋艇多数と人員を喪失した。
 1月10日、リンガエン湾では、陸軍の㋹艇が出撃し、輸送船団に大きな打撃をあたえた。1月31日にはナスグブ沖でも㋹艇の出撃があった。いっぽう震洋の現状として20年1月6日の御下問奉答資料に「(二)震洋隊『マニラ』一三〇~一四〇」の記録がある。昭和19年12月末までに多数の震洋艇を消失したことになる。
 1月末から、米軍の攻撃はコレヒドール島に集中した。1月30日にはスピック湾に米軍が上陸を開始した。2月10日から戦艦を含む米艦隊が湾口に出現し、コレヒドール島に砲撃を開始した。この砲撃を避ける為震洋隊員等は隧道内に移動したが14日の砲撃により震洋艇に相当の被害があった。
 2月15日米艦隊はマリベレスに砲撃を加えた後15:00ストラブル准将の率いる水陸第九グループ四、三〇〇名がマリベレス西方付近に上陸を開始した。
 2月15日21:00小山田少佐は第十二震洋隊に対し出撃を下命した。約五〇隻の震洋艇が北桟橋から出撃した。16日03:30頃マリベレスの方向に大爆発がおこった。この特攻の戦果は2月17日三十一特根コレヒドール派遣隊の無電によると、「敵巡洋艦一、其の他一轟沈せり」と報告されている。日本側推定によれば巡洋艦、駆逐艦各一隻、輸送船二隻撃沈破となっている。連合軍記録は、大型上陸支援艇第二七号一隻沈没とある。
 2月16日11:00コレヒドール中央台地付近に落下傘部隊が降下し同時に南桟橋から有力な部隊が上陸して来た。残存した震洋隊員は夜間斬り込み等によって応戦した。22日以降バタン半島方面に脱出したが大部分は行方不明となった。27日には准士官以上は全部自決し戦闘は終った。コレヒドール配備兵力は約四、五〇〇であった。
 コレヒドール震洋隊の出撃に関する記録としては、南西方面艦隊残務整理班作成書類が現存する。
一、震洋隊の士官は総員玉砕、下士官兵も殆ど玉砕
二、コレヒドールに米軍接近するや特攻に依り目ざましき働きをなす。
第十二震洋隊については、㊃隊搭乗員は2月15日マリベレス湾攻撃半数成功、戦果をあげた故搭乗員は特進の手続をする。
右の記録があるが震洋隊には二階級特進者はいない。


沖縄
 沖縄には二コ部隊の震洋隊が派遣され、海軍沖縄方面根拠地隊太田実少将の指揮下に入った。第二十二震洋隊は昭和19年10月末川棚臨時魚雷艇訓練所で編成され、沖縄本島の金武に到着したのは翌20年1月26日であった。3月14日、金武湾で訓練中B‐24爆撃機の急襲をうけ、先任将校藤本中尉以下十八名が戦死、訓練中の震洋艇十隻を失った。
 第四十二震洋隊は二隊に分かれて佐世保を出発した。先発隊が2月末沖縄本島に到着、金武湾に面した屋嘉が基地に当てられた。後続隊は3月1日輸送船慶山丸(二、一一六噸)で佐世保を出港したが、10日07:00北緯二九度二三分東経一二八度一三分の地点に於て敵潜水艦の雷撃を四番艙にうけ、三〇隻の震洋艇と多数の隊員が海没した。
 米軍は3月26日、慶良間諸島に上陸を開始、ここに前進基地をつくった。翌27日沖縄方面根拠地隊司令部は、第22震洋隊並びに第42震洋隊に対し、中城湾沖の敵艦船攻撃の為に各隊六隻の出撃命令を出した。第22震洋隊は一隻が機関不調で出撃出来ず、十一隻が目的の海域に向かって出撃した。中城湾沖に到着して捜索したが敵艦船を発見出来ず、両隊とも全艇帰投した。
 3月29日夕刻、二回目の出撃命令が第42震洋隊に下った。部隊長井本中尉は残艇約一個艇隊を率いて中城湾方面に向け出撃した。しかし井本部隊は会敵出来ず沖縄本島南部に上陸、沖縄方面根拠地隊に合流して地上戦に加わり、部隊長はじめ隊員の半ばが戦死した。3月30日夜になって、前夜出撃した第42震洋隊の一隻が機関故障で金武基地に帰投した。その途中中城湾沖合に敵艦船を確認したとの情報を得たので、第22震洋隊部隊長長豊広中尉は独断で一個艇隊の出撃を決心した。第4艇隊長中川兵曹長が志願して艇隊を指揮出撃したが31日夜明艇隊は会敵出来ず帰投した。艇の繋留を終った頃、敵機の空襲により、帰還艇は全艇が爆砕し、陸上の八隻も誘爆消失した。
4月1日米軍が沖縄本島に上陸を開始した。3日には第22震洋隊は一個艇隊を出撃させ、湊川沖の敵輸送船団を攻撃せよとの出撃命令を受けた。しかし連日の空襲で誘導路は損傷し、運搬車も自由がきかず、五隻を浮かべ得たのみであった。一艇には二人の搭乗員が乗り込んだ。部隊長長豊広中尉の指揮官艇と四隻の攻撃艇は南に向かって発進した。
 伊計島に近付く頃、後続艇のうち二隻が機関故障で脱落し、湾外に出たのは三隻であった。4日午前2時頃駆逐艦らしき艦影を発見、後続二艇が攻撃命令を受け発進した。しかし敵は高速で航走している軍艦であり、震洋艇は二人乗りで充分な速力が出せず、一艇は敵艦を逃してしまったが、市川正吉二等飛行兵曹と鈴木音松二等飛行兵曹の艇は体当たりに成功し、駆逐艦一隻を撃沈した。敵艦を逃した艇は攻撃を断念し金武岬北方に上陸帰隊した。指揮官は残存艇を率いて再出撃すべく、金武に帰投したが、基地は敵上陸軍の砲撃を受け、基地隊員の一部は陸軍と合流すべく基地を離れ、艇の浮泛は不可能な為攻撃を断念、4月4日基地を破壊して陸上戦闘に移行した。             (上田 恵之助)