第一編 特別攻撃隊の戦闘  第6章 待ちうける水中特攻隊

2. 伏龍 2. 伏龍

1 編成の発端

 昭和20年に入ると、日本の港湾及び主要水路はB-29から投下された磁気機雷などによって封鎖され、従来の方式ではこの処理が間に合わなくなった。海軍では、潜水員を海中にいれて機雷に少量の爆薬を仕掛け、遠方からの操作で爆破処理する計画がたてられた。このためには、潜水者が自ら空気を持って海底で自由に行動できる簡便な潜水器が必要であった。中央からこの潜水器の製作を命ぜられた横須賀海軍工作学校長美原少尉は、同行研究部員の清水登大尉にその研究実用化を下命した。

当時、人間が魚と同様に海底で動き回るという想像もしなかった潜水器の開発には大きな困難が山積していた。20年2月から開発研究を開始した清水大尉以下十名のスタッフの不眠不休の努力により、3月中旬にはこれまでの送気式潜水具に代わる画期的潜水器はほぼ実用化の段階にまで漕ぎつけたのである。

一方、この簡易潜水器の開発がほぼ完成に近付いたころ、軍令部ではこれを特攻に使用する構想がたてられていた。昭和20年3月11日、横須賀防備戦隊石川茂司令官は「横須賀防備戦隊命令」(軍極秘第14号)として横須賀防備隊司令に対し、次の研究、所要兵器の量産、要員の養成に関し具体案の提出を命じている。

一 簡易潜水衣ヲ使用シ特攻兵器又ハ舟艇襲撃隊等ヨリ発進、碇泊又ハ漂泊中ノ敵艦船ヲ水中ヨリ攻撃スル方策ニ関シ簡易潜水衣、水中攻撃用兵器並ニ之カ攻撃法

ニ 舟艇総武装用簡易兵器
三 水際ニ於ケル上陸舟艇撃滅用簡易兵器

横須賀海軍工作学校では、3月17日から同行で開発した簡易潜水器を特攻用として使用する実験を開始した。4月末、この実験報告書の「成果概要」には、

(亻)海上ヨリノ送気装置ヲ要セス無気泡ニシテ隠密性大ナリ
(ㇿ)浮揚沈降懸吊共ニ極メテ容易且水中に於ケル行動軽快ニシテ諸兵器ノ携行容易ナリ

とあり、「所見」として
「現在迄二得タル成果ハ深度15米潜水時間5時間ニシテ従来ノ潜水器ニ比シ運動性極メテ大ニシテ隠密性アリ特攻用トシテ利用価値大ナルト共ニ普通潜水器トシテモ画期的考案ト認ム」
と報告された。
 5月26日、伏龍は制式兵器として採用され、取敢えず三〇〇〇人分を整備することになった。

伏龍装備図

 

2 伏龍特攻隊編成さる

 昭和20年4~5月、伏龍の実験段階であったが、指導員確保のための潜水訓練、講習が行われ、5月23日からは特攻関係者が続々と対潜学校及び情島に着任するようになった。
 伏龍の編成、配備は全海軍を挙げて実行に移され、中央から各鎮守府管下の防備戦隊を通じて次の命令が出された。

 横須賀防備戦隊命令 機密横防23号(5・6)
一 横須賀防備隊司令ハ水際特攻隊用各種伏勢陣地ニ関シ速ニ研究ヲ了シ之ラ成果ヲ報告スヘシ
二 右ニ関シ横須賀海軍警備隊司令官、横須賀海軍砲術学校長、海軍対潜学長、横須賀海軍航空隊司令、横須賀海軍施設部長、第二海軍火薬廠長、横須賀海軍軍需部長ト協力スヘシ
横鎮信令第323号(6・16)
横須賀海軍工作学校長及横須賀鎮守府聯合工作指導官ハ左ニ依リ、伏龍隊用酸素瓶成ル可ク多数制作スヘシ
(亻)製作要領横作校設計ニ依ル
(ㇿ)完成期日概ネ8月末日迄


 伏龍隊の編成は海軍対潜学校と対岸の横須賀海軍工作学校及び情島、川棚等で進められた。6月初旬ごろ第71嵐突撃隊司令予定者として海軍大佐新谷喜一(本部は野比)が着任、第81突撃隊では、特攻長海軍少佐平山茂男が5月着任(本部は軍艦「日向」)戦闘部隊として伏龍隊の編成が本格化した。

7月18日、軍令部から発出された伏龍隊の配備計画は次の通りである。
伏龍隊急速整備展開要領(機密第525号)

一 要旨
 主トシテ敵上陸用舟艇ヲ水際ニ奇襲之ヲ撃滅スルノ目的ヲ以テ本兵力ヲ急速整備、予想来攻正面ニ展開ス
ニ整備兵力及配属区分
(亻)整備兵力
  10月末展開整備ヲ目途トシ次ノ兵力ヲ整備ス

  横鎮    呉鎮    佐鎮    舞鎮
  五ヶ大隊  ニヶ大隊  ニヶ大隊  一ヶ大隊

(ㇿ)配属区分
  大隊毎ニ予想来攻正面突撃隊ニ配属スルヲ建前トシ其ノ配属区分ハ別命ス

伏龍隊の編成計画は次の通りであった。(防研資料による。但し5月の段階ですでに訓練編成を開始していた部隊もあった。)
横鎮(第1特攻戦隊に伏龍隊として第71突撃隊を編成)久里浜で訓練編成 

 

7月15日~8月10日 一ヶ大隊
 8月5日~9月5日  一ヶ大隊
 9月1日~9月20日  ニヶ大隊
呉鎮(第2特攻戦隊に伏龍隊として第81突撃隊を編成)情島で訓練編成
 8月1日~9月9日  一ヶ大隊
 9月1日~9月30日  一ヶ大隊
佐鎮(第8特攻戦隊の川棚突撃隊に伏龍隊を編入)川棚で訓練編成
 8月10日~9月9日  一ヶ大隊
 9月1日~9月30日  一ヶ大隊
舞鎮(舞鶴突撃隊)横鎮へ派遣訓練
 8月5日~9月5日  一ヶ大隊
右のように伏龍隊はその一部を編成しただけで、実践に至ることなく終戦を迎えた。

 

3 伏龍隊の戦法と訓練

6月初め、各鎮守府の伏龍先遣部隊要員(講習員)たる士官及び下士官兵計四八〇名が選抜され、横須賀対潜学校に集合して本格的訓練が開始された。兵舎は海軍水雷学校野比第二実習所があてられた。伏龍隊員の主力は飛行予科練習生であり、その指揮官は予備学生出身の士官であった。航空隊から伏龍隊への心の転換は容易ではなかったであろうが、飛行機と燃料の乏しい現実下において、心身共に健実な飛行予科練習生がその主力隊員として選ばれたのである。


 これらの伏龍訓練を終えた先遣隊員は、6月下旬、それぞれ所属鎮守府管下の部隊へ戻り、潜水訓練の指導に当たっていた。


 第71嵐部隊では、7月上旬以降、順次三ヶ大隊約一、五〇〇名が横須賀の野比、対潜学校、工作学校に集められ、潜水訓練が行われていた。
伏龍隊員の動きは、およそ右の通りであったが、その訓練には多くの困難と犠牲が伴った。伏龍特攻隊の戦闘は、簡易潜水器を身につけ、約5米の竹竿の先につけた五式撃4雷(通称棒機雷)を持った隊員が、海底5~7米に潜み、頭上を通過する敵の上陸用舟艇の船底を目がけて体当たり攻撃をかけるというものである。問題は長時間海底に潜むことである。酸素は呼吸、浮上、水中懸吊に使用するので大量に必要である。このため、炭酸ガスの混ざった呼気は口から吐き出し清浄缶を通して苛性ソーダに炭酸ガスを吸収させ、再び呼気として還元使用する仕組みになっていた。この鼻から吸い、口から出す呼吸法は容易でなく、三~四回間違うと海中で気を失うことがあった。呼吸の間違いか、清浄缶破損による事故で多くの殉職者を出したとされている。特に3月から実験訓練が行われ、訓練人員一人当たりの潜水回数の多かった横須賀では、関係者の話を総合すると、十名以上の殉職者が出ていたとのことである。しかしその実数は明らかでない。極秘作戦準備中の事故であり、その死因が伏せられていたからであろうか。ただ、71嵐部隊第2大隊名簿に「20年8月6日清浄缶事故で死亡富重重一郎 乙20期 飛長 鹿児島」の記事が残っているだけである。


 伏龍部隊を配備する地点は、敵の攻略部隊の入泊が予想される海面付近を選定された。待機陣地は耐弾式の地下施設である。陣地から泊地に至る海底には、伏龍部隊を敵艦に誘導するに十分な誘導索を展張する予定であった。(終戦まで完成したものはなかった。)久里浜での訓練では歩数によって、50米間隔で5~7米の海底に伏龍隊員が展開待機する訓練が行われた。この50米間隔を突破されないための配備展開は二重、三重の千鳥状としなければならない。しかし、干満で潮流の変化する歩き難い海底で、歩数で予定された展開配備点に着くのは至難の業であった。


 50米間隔にした理由は、五式撃雷の爆発安全圏が50米とされていたからである。しかし50米でもなお危険があったと言われている。さりとて爆発力を抑えれば、敵艦船に対する威力が軽減する。また、敵にわが方の企図を察知され、砲爆撃を受けても簡単に全滅させられるおそれがあった。まさに特攻兵器ではあるが、疑問の多い戦法であった。


 一方、実験隊では、簡易潜水器を着用した隊員が防水された軽火器を携行し、上陸した敵の橋頭堡に奇襲攻撃をかける訓練も行われていた。最も成功率の高い戦法として、「伏龍隊員が魚雷を曳航して泊地の敵船底に取り付けて爆破させる」という方法も考案されたが、これは実験に至らずに終戦となった。


 本土決戦は一億国民総特攻の覚悟であった。この時に、その成否には多大の疑問があったとしても、海軍軍人が終末的特攻兵器の伏龍を考案した必死の努力は評価されてもよいのではあるまいか。(門奈鷹一郎)

 

配置につく伏龍隊員