試作艇の搭乗員を除き、甲標的の最初の要員教育は昭和15年11月25日から開始された。指導官は、昭和8年最初の実験艇の搭乗員であった加藤良之助中佐で艇長要員二名(岩佐直治大尉、秋枝三郎中尉)、艇付要員二名(佐々木直吉兵曹、竹本正己兵曹)、調整整備員として特准士官一名下士官八名の講習員であった。第二次以降第五次までの各講習期別内訳は次のとおりで、特に家庭に後顧の憂少なく、堅忍不抜の精神に富んだ者を選抜し、艇付、整備員については主として潜水艦乗員の中から各鎮守府に選抜させた。
【艇長講習期】
(1期)
士官 2名
特務士官、准士官 1名 ※主として整備担当
(2期)
士官 10名
特務士官、准士官 2名
(3期)
士官 12名
特務士官、准士官 1名
(4期)
士官 5名
特務士官、准士官 4名
(5期)
士官 10名
特務士官、准士官 10名
【調整員講習期】
(1期)
艇付 2名
掌水雷 6名
掌電信 2名
掌運用 0名
(2期)
艇付 4名
掌水雷 0名
掌電信 4名
掌運用 6名
(3期)
艇付 12名
掌水雷 0名
掌電信 6名
掌運用 6名
(4期)
艇付 11名
掌水雷 4名
掌電信 0名
掌運用 5名
(5期)
艇付 20名
掌水雷 10名
掌電信 10名
掌運用 20名
特准士官の講習は四期以降本格化し艇付は所掌業務上殆んど水雷の掌持ちの兵曹であった。
講習の内容は、呉工廠魚雷実験部において機構の原理、取扱法、潜航法、整備法の座学約一カ月間、母艦千代田において、基礎的潜航法整備法の実地訓練、潜水学校における机上襲撃訓練、実艦的襲撃訓練、生地における狭水道通過、夜間訓練等約四カ月で計五~六カ月(期により若干異なる)の課程であった。
母艦からの発進訓練は三期までで、四期以降は実施しなかった。
講習員の増加につれ、母艦における訓練は手狭になり、18年丙型の誕生とともに局地防御のための襲撃技術訓練、或は航海術力の向上が必要となり、加えて母艦任務を持っていた軍艦千代田・日進が他任務に就かざるを得ない状況となったので、大浦崎に基地(P基地)を作り、ここで甲標的要員の教育訓練或は錬成訓練を実施することとなった。これにより教育訓練効果は向上し増員受入れの態勢が整った。
P基地における教育は、艇長予定者六カ月、艇付予定者は五カ月(あと一カ月は艇長とのコンビ訓練)、整備員は三カ月を標準とし、実地訓練は安芸灘周辺伊予灘で実施し、座学は基地講堂、整備実習は主として隣接の大浦崎分工場で行なわれた。講習員は体力頑健意気旺んであったが、いかんせん経験不足の若年士官と下士官であったので基礎教育を充実し、訓練回数を積み重ねることが必要であった。
18年にいたり甲標的の要員養成は一時中止すべしとの声があり、既成搭乗員も基幹要員を残し、前記の如く潜水艦等に転出させられた。
19年7月P基地が第一特別基地隊となる前後から指導官の増員充足及び教育訓練要員の増加が実施された。
19年12月大本営の本土決戦決意に伴い多数の特攻兵力を整備することとなり、蛟龍も月産八〇基分に見合う要員を養成することとなった。艇長予定者の大部は予備学生出身士官から、艇付の大部も飛行予科練習生出身の飛行兵曹から選抜することとなった。教育は潜水学校において三カ月の基礎教育(実際はもっと短期間であった)、あとは第一特別基地隊で実地訓練を実施した。大浦崎基地及び対岸の大迫分遣隊は増員のため手狭まとなったので20年3月特攻戦隊令の発布に伴ない、第二特攻戦隊(旧第一特別基地隊)の下に練成基地として大浦突撃隊(旧大浦崎基地)及び小豆島突撃隊がおかれることとなり、練成訓練のできたものから各突撃隊に配置されることとなった。
六期以降の艇長講習員数は次の通り
6期 10人(兵71期)
7期 14人(兵71期及び特准士官)
8期 10人(兵72期及び特准士官)
9期 50人(3期予備学生)
10期 6人(兵71期)
11期 21人(兵71~73期)
12期 50人(4期予備学生及び1期予備生徒)
13期 49人(同 上)
14期 70人(3期及び4期予備学生及び1期予備生徒)
15期 13人(高等商船 兵72~73期)
16期 76人(兵74期)
17期 164人(5期予備学生、2期予備生徒)
18期 29人(兵74期)
19期 38人(高等商船)
20期 6人(兵72~73期)
(記事)
1、この内に回天、海龍に移った者を含む。
2、艇付、整備員も艇長数に応じ養成された。
3、終戦時艇付約五〇〇名、練成中の艇付約一三〇〇名であった。