昭和17年6月甲標的乙型の計画以後、製造担当は呉工廠魚雷実験部から潜水艦部に移された。かねてから進められていた呉工廠大浦崎分工場は17年中頃整備を完了し同年秋から量産態勢が軌道に乗った。この分工場に近接してP基地(指揮官の名をとって井元事務所、ついで山田事務所と称した)が設けられた。19年7月1日特別基地隊令が発布され、このP基地に長井満少将を指揮官とする第一特別基地隊が設置され、甲標的及び回天(後に大津島に移る)の教育訓練を掌った。
19年9月13日中央に海軍特攻部が設置されたが、甲標的は潜水艦と共にその所掌外であった。
20年初頭甲標的丁型(五人乗り、二〇・四量産計画時から特攻兵器扱いとなり蛟龍と呼称。二〇・五・二八内令二五号をもって正式に特攻兵器として採用された)の諸試験が実施され、水中速力こそ一六節に低下したが耐波性凌波性航続力において丙型に比し極めて良好な結果が得られた。この結果大浦崎分工場の外呉工廠でも建造することとなり、増産のピッチを上げる態勢に入った。19年10月の陸海軍戦備共同整備の協定が成立し、陸海軍間の原料物資の取り合いは緩和されはしたものの、20年前期陸海軍戦備計画覚え書きによれば、蛟龍の戦備計画は次の通りの尨大なものであり、関係各部は大変な苦労をしたが、時局緊迫の為それぞれ最大の努力を払った。
第一期(20・4~6月) 一一〇隻
第二期(20・7~9月) 四三〇隻
第三期(10月以降) 一、〇〇〇隻
この計画では到底呉近辺のみでは建造は不可能であるので海軍工廠のみならず全造船所が動員された。
割当隻数は次の通り(月産)
呉 工 廠 一〇隻 三 菱 長 崎 一五
三 井 玉 野 五 小 崎 神 戸 五
播 磨 一〇 横須賀工廠 一〇
舞 鶴 工 廠 一〇 新 潟 鉄 工 五
日 立 向 島 一〇 計 五〇隻
後に三菱神戸、三菱横浜を追加
20年3月1日特攻戦隊令、突撃隊令が発布され甲標的関係では第一特別基地隊は第二特攻戦隊となり、大浦突撃隊、小松島突撃隊を指揮し、また大和田昇少将指揮のもとに第一〇特攻戦隊、その下に第一〇一突撃隊及び第一〇二突撃隊が配された。
20年4月15日海軍特兵部が設けられた。これはさきに設置された海軍特攻部はとかく海軍各部特に潜水艦部との摩擦が多くかえって効率を悪くしたので、潜水艦、蛟龍も合せその他特攻兵器全般の研究開発、生産促進、要員養成、その他全般の総合調整のため設けられたものである。
蛟龍の行動範囲が一、〇〇〇浬となったので本土防衛の為の作戦基地施設が必要となり海軍省の計画により次のように各鎮守府毎に施設作りが開始された。重要地域については耐爆式が計画された。
甲基地(蛟龍一二隻収容可能の能力を有するもの)
佐世保 横須賀 舞鶴 宿毛 的矢 萩浜(宮城県)
乙基地(蛟龍六隻収容可能の能力を有するもの)
牛深 油津 細島 佐伯 須崎 橘湾 英虞(三重県) 下田 江浦(静岡県) 勝浦(千葉県) 小名浜 吉見(山口県)
丙基地(蛟龍三隻収容可能の能力を有するもの)
油壺 勝浦(和歌山県) 宇和(高知県)
しかしながら物資の欠乏、加えて空襲下の作業の為関係者の努力にも拘わらず工事は遅々として進まなかった。終戦時の蛟龍建造状況は次のとおり。
建 造 所 完成数 建造中 計
呉 工 廠 約六〇 約一〇〇 約一六〇
舞鶴工廠 一四 五〇 六四
横須賀工廠 四 五〇 五四
三井玉野 約三〇 五〇 約八〇
三菱長崎 三 六九 七二
〃神戸 〇 一七 一七
〃横浜 〇 三二 三二
川 崎 〇 四七 四七
播 磨 〇 三九 三九
新潟鉄工 〇 一二 一二
日立向島 二 三〇 三二
総 計 約一一三 約四九六 約六〇九
終戦時の蛟龍関係の編成、及び定数は次のとおり。
第一特攻戦隊(下田)第一五突撃隊(下田)四隻
第五特攻戦隊 第二五突撃隊(佐伯) 七隻
第六特攻戦隊(小松島)第二一突撃隊(橘湾)二四隻
第八特攻戦隊(鹿児島)第三二突撃隊 4隻
第一〇特攻戦隊(佐伯)
第一〇一突撃隊 六隻 大浦突撃隊 一〇四隻
第一〇二突撃隊 六隻 小豆島突撃隊 二九隻(甲・乙型及び練習用を含む)
奄美大島 一隻
舞鶴突撃隊 六隻
ただし、実配備については、第一〇特攻戦隊を除いて一部しか配備されないもの或いは全く配備に到らなかった個所がある。