会員髙橋暢
一招魂祭
令和三年四月二十九日(日)正午より、総社神社(秋田県秋田市川尻総社町十四の六・川尻孝紀宮司)に於いて、「第三十回・秋田県特別攻撃隊招魂祭・昭和の日記念祭」が秋田県特別攻撃隊招魂祭実行委員会の主催で行われた。
来賓として、出版社社長でNPO法人「ふるさとにっぽんプロジェクト」理事長の倉秀人氏、ジャーナリストの上島嘉郎氏、俳優の上島尚子氏、ジャーナリストの葛城奈海氏、歌手のSAYA氏を迎え、参加者は総勢約二十名であった。
今回は記念すべき第三十回目の招魂祭であったが、新型コロナウィルス感染症予防のため参加人数を制限し、感染対策に万全を期しての開催となった。
朝のうち強かった雨脚も徐々に回復はしていたが、依然として雨雲が低く垂れ込め、いつまた降り出してもおかしくない空模様だった。
十一時半頃、私が総社神社の広大な境内の一角に設けられた式典会場に行くと、誰よりも早く藤本光男さんが来場された。
走り寄って挨拶をすると「今年、九十五歳!」と元気な笑顔でお答えになる。杖を使ってはおられるが、姿勢はいまだに元帝国軍人のそれであり、耳もはっきり聞こえるし頭脳も明快である。
藤本光男さんは第十二期海軍甲種飛行予科練習生出身の元偵察員。海軍明治基地で夜間戦闘機「月光」に乗ってB29邀撃戦に参加。その後、藤枝基地に移り、夜間戦闘機型「彗星」で昼夜逆転の過酷な訓練に明け暮れた。招魂祭では、平成五年から追悼の言葉を読まれている。
正午、招魂祭開式。一同、昭和天皇武蔵野御陵を遥拝。雅楽による国歌吹奏。
そして佐々木三知夫さんによって「国の鎮め」のラッパが奉納された。
佐々木さんは元秋田県庁職員で、現在は、障がい者のためのNPO法人「あゆみの会」や、企業組合農藝舎、農事組合法人新田水稲生産組合などの代表理事として、秋田県の農業、貿易、福祉と幅広い活動をしている。
高校、大学とトランペットを吹いていた佐々木さんは、本招魂祭初代主宰者・故舛谷健夫さん(元・第三特攻戦隊震洋隊隊員)の講演を聞いた事が縁で、「国の鎮め」のラッパ奉納を行うようになった。
佐々木さんの使用するラッパは、サイパン島の戦いの際に米海兵隊の兵士が戦利品として日章旗と共に持ち帰ったもので、その後、在米日本人を介して五十年ぶりに日本に返却された「里帰りラッパ」である。
日章旗に「秋田」の添え書きがあったことから秋田県庁に問い合わせがあり、当時国保援護課勤務だった佐々木さんが調査にあたった。その結果、日章旗は遺族の元に返すことができたが、ラッパの持ち主はついに判明しなかった。
ラッパは持ち主不明のまま、秋田県遺族会館、陸上自衛隊秋田駐屯地資料館などで保管され、今は佐々木さんが県庁退職後に立ち上げた「秋田ふるさとづくり研究所」事務所内に「里帰喇叭神社」御本尊として祀られている。
この「里帰りラッパ」は、本招魂祭のほか、戦友会、遺族会、シベリア抑留戦没者を慰霊する抑留回想平和記念碑での慰霊祭などで、「国の鎮め」を奏でている 。
「かれこれ二十四、五年、このラッパで『国の鎮め』を吹いているが、なかなかうまく吹けない。でも今日はどうやら上手く吹けました。」佐々木さんは式後に穏やかに微笑んでいた。
「国の鎮め」に続き、神事、神前神楽の奉納が行われ、続いて、司会の小野立さんが、秋田県陸海軍特別攻撃隊五十六柱のご芳名を朗読した。
司会の小野さんの曾祖父は、戦争当時、能代八幡神社近くで料亭を経営しており、陸軍能代飛行場(東雲飛行場)で訓練する若い特攻隊員達が前線基地へ向かう際には、私財を投げ打って盛大な壮行会を開催し、八幡神社での必勝祈願にも参列して、特攻隊員達を見送ったと言う。
現在、能代八幡神社には特攻勇士の像が建立され、毎年六月二十日に「東雲飛行場戦歿者慰霊祭」が陸士六十期の武田安一さんを主催者として行われているが、小野さんは同慰霊祭運営を長年に渡って補佐しており、武田さんの意志を次世代に引き継ごうと活動している。
英霊ご芳名朗読に続き、藤本光男さんが追悼の言葉を朗読した。冒頭で藤本さんは、第十二期甲種飛行予科練同期の特攻隊員六名に呼びかけた。
昭和十八年六月一日に土浦航空隊の門をくぐり、九ヶ月に渡る厳しい訓練を共にした同郷の戦友達。七十六年前、硫黄島に、沖縄に、そして宮城県沖に、若い命を散華させた若鷲たちである。
信太廣蔵少尉(大正十四年四月二十二日生・二十一歳没)は能代市出身。神風特別攻撃隊第二御盾隊・天山雷撃隊第四小隊四番機偵察員として、昭和二十年二月二十一日正午に八丈島より出撃。十六時から十八時の間に硫黄島周辺の敵艦船に突入散華した。
髙橋忠少尉(大正十五年七月十日生・二十歳没)は山内村(現横手市)出身。
神風特別攻撃隊第二八幡護皇隊・九七式艦攻隊一番機電信員として昭和二十年四月十二日午前十一時から正午にかけて僚機二十一機と共に串良基地より出撃。一四四一「我戦艦ニ体当リス」と打電し、沖縄周辺海域で突入散華した。
山本英司少尉(大正十五年六月七日生・二十歳没)は角館町(現仙北市)出身。神風特別攻撃隊神雷部隊第九建武隊隊員。
五百キロ爆装の零戦操縦員として、四月二十九日十四四二、鹿屋基地より出撃。
一七二一「我空母ニ突入」を打電し、沖縄本島東方の敵艦船群に突入散華した。
角館町(現仙北市)出身の石橋賢司少尉(大正十五年六月十三日生・二十歳没)は神風特別攻撃隊菊水雷桜隊・天山雷撃隊第四小隊二番機電信員として、
大曲市(現大仙市)出身の桑野正昭少尉(昭和二年二月二十三日生・十九歳没)は同隊第一小隊一番機電信員として、昭和二十年五月十一日○五四八、串良基地より天山艦攻十二機で出撃。同○九○六、石橋一飛曹(当時)より「敵飛行機見ユ」との打電を最後に、沖縄本島西方で散華した。
小松文男少尉(昭和二年一月三日生・十九歳没)は湯沢市出身。神風特別攻撃隊第七御盾隊第二次流星隊二番機偵察員として、八月九日一四一五に木更津基地より出撃、「一五二○敵空母見ユ」と打電し、宮城県金華山沖の敵航空母艦に突入散華した。
予科練の厳しい生活の中で、入浴は一息つける数少ない憩いの場だったそうだ。
丸坊主に丸裸。皆同じように見えるのだが不思議と見分けがつき、湯船では自然と同郷同士が固まって、そこここにお国訛りの話に花が咲いたと言う。
能代市出身の藤本さんは、角館出身の山本英司さんと馬が合い、バス(湯船)では良く互いの故郷の話をしたそうだ。
角館と言えば武家屋敷と桜並木。藤本さんが角館の桜を褒めると、山本さんはバスにつかって目を細めた。
山本英司さんは運動神経抜群。神宮競技場で行われた全国体育大会に予科練代表選手として出場し、観衆の前で見事な予科練体操を披露した。生真面目で不正を許さない厳格な男。それでいて性格はさっぱりしていた。山本さんは操縦専修に進み、零戦乗りとなった。
実は昨年の本招魂祭は、新型コロナ感染症の影響で、神職と招魂祭実行委員長の山本高敬さん、舛谷政雄さんのみで行われ、恒例のシンポジウムは中止となった。
そこで舛谷さんはシンポジウムの代わりの特別企画として、映像作家の阿部輝忠さんと共に、藤本さんのインタビューを含む動画映像を制作し、インターネットで公開した。
すると、それを観た宮城県のある高校から「ぜひ藤本さんのお話を生徒に聞かせたい」と言う申し出があり、昨年十二月、秋田を訪れた高校生達を前に、藤本さんがご自身の戦争体験を語る機会があった 。
当 初、藤本さんは、現代の若者に自分の話が伝わるかどうか半信半疑だったと言うが、高校生達は藤本さんの話に真剣に耳を傾け、後日、彼らから丁寧な礼状が届いたと言う。
歴史の教科書でしか知らない戦争。その戦争を実際に戦った藤本さんの話を直接聞く事は、高校生達にとってこの上なく貴重な体験だったに違いないし、藤本さんにとっても、ご自身の想いが現代の若者に十分通じた事は大きな喜びだったのではないだろうか。
追悼の言葉の中で藤本さんは、過日の高校生達との交流を、同期生達に報告するのだった。
藤本さんの追悼の言葉に続き、大西瀧次郎海軍中将の遺書が実行委員長の山本高敬さんによって朗読され、続いて、来賓の倉秀人さん、上島嘉郎さん、上島尚子さん、葛城奈海さん、SAYAさんらによる玉串拝礼が行われ、撤饌の儀、昇神の儀をもって神事が終了した。
神事に続き特攻隊員の遺書の朗読が行われた、最初に関豊興海軍大尉の遺書が、葛城奈海さんによって朗読された。
関豊興海軍大尉は大正十二年一月二十一日、鹿角市生まれ。明治学院大学在学中に学徒出征し第十四期海軍予備学生となった。横須賀海軍航海学校在学中に「回天」搭乗員を志願。
昭和二十年七月十四日、伊第五十三号潜水艦を母艦とする神潮特別攻撃隊多門隊隊員として山口県大津島基地より出撃。
八月四日、フィリピン・エンガノ岬沖で体当たり攻撃を敢行し、米海軍護衛駆逐艦アールV・ジョンソンを損傷させた。
父上様母上様
二十三星霜の御高恩、心より御礼申上候。
万感胸に到りて、一句も無之候。何卒、意中、御察被下度候。
父母上様の御健康を神かけて祈りつつ、出撃致す心算に候。
峰高き五の宮の山、そのよはひ
我がたらちねの父母にこそやれ
風邪引くなさむからぬかと我が夜着たを
れかとりみん父母ならずして
追伸
大館にての写真、並に御守、有難く頂戴仕候。多聞とは楠公幼時の名前にて候。
本隊の回天隊も頼山陽の楠公論の所に見ゆる如く、天日の既にかくるるを回すより起きたる名にて候。
同書並にハンカチの血は小生の血にて書けるものにて候。菊水の流れの如く、七生報国を誓い申上候。
続いて、伊藤甲子郎陸軍少尉の遺書が、SAYAさんによって朗読された。
伊藤甲子郎陸軍少尉は、大正十四年一月二日、横手市生まれ。昭和十六年十月東京陸軍航空学校入隊。熊谷飛行学校第十三期少年飛行兵・操縦。
昭和二十年六月八日、特別攻撃隊第四十八振武隊隊員として、一式戦闘機「隼」で知覧基地より出撃。沖縄周辺海域で敵艦船に体当たり攻撃を敢行した。
「落下傘の切れ端に書いてあった書」
いざ故郷に帰へらむ
何時の日も、何時の日も
楽しかりし、吾が村
常に吾が喜びなりし
さらば故郷
さらば父母 妹 弟よ
懐かしの山
思い出の川
別れの言葉 残して今
告國の為に 吾は征く
甲子郎
歌手として活動するSAYAさんは、伊藤少尉の遺書の朗読の前後に、「秋田県民歌」と「ふるさと」を独唱献歌した。
昭和五年に制定された「秋田県民歌」は、山形県民歌、長野県民歌と並び三大県民歌と称される。作曲は秋田県出身の成田為三、歌詞は公募され、秋田県出身の倉田政嗣の歌詞が採用されたが、その歌詞を補作したのが「ふるさと」の作詞者である高野辰之であった。
昭和五十七年、舛谷健夫さん、舛谷ヤスエさん夫妻がライフワークとしていた「秋田県戦没者芳名録」の最後の贈呈式の際、プロの歌手に依頼して秋田県民歌を歌ってもらった。その際、受付を担当していた若き舛谷政雄さんに遺族から、「ふるさと」も歌って欲しかったという要望があったと言う。
今回の「秋田県民歌」と「ふるさと」の二つの献歌は、父健夫さんと母ヤスエさんの功績への感謝と、あのときの遺族からの要望に応える形として、三十九年越しに政雄さんの思いが実現したものであった。
式典は舛谷政雄さんによる主催者挨拶。実行委員長の山本高敬さんによる聖寿万歳。SAYAさんによる「海ゆかば」の独唱をもって終了した。
葛城奈海さん、SAYAさんによる遺書朗読の頃からは再び雨脚が強り、それがあたかも英霊が天で涙しているかのようであった。
二 シンポジウム
招魂祭終了後、秋田パークホテルに会場を移して、「第三十回秋田県特攻慰霊シンポジウム」が開かれた。こちらも座席を開けて消毒を徹底するなど、感染対策を万全にしての開催だった。
シンポジウムの冒頭、本荘市出身の特攻隊員植村正次郎中尉の妻の良(りょう)さんから舛谷健夫さんに届いた手紙(秋田県海軍戦記�气cバサ広業出版部掲載)が、女優の上島尚子さんによって朗読された。
上島尚子さんは、鹿児島県鹿屋市出身。母親の実家は、かつて海軍御用達だった「富久屋」と言う和菓子店であり、鹿屋基地で出撃を控えた特攻隊員も良く訪れていたそうだ。出撃の際、特攻隊員達は上島さんの祖父の心尽くしのタルトを機上に持って飛び立って行ったと言う。
小さい頃から特攻や特攻隊員のことを耳にすることが多かった上島さんにとって特攻隊は身近な存在だったそうだ。上島さんは平成二十年に靖国神社で行われた奉納野外劇「俺は、君のためにこそ死にに行く」にも出演されている。
植村正次郎中尉は大正九年一月三日、本荘市に生まれた。
撃墜王・西澤廣義中尉と同期の第七期海軍乙種飛行予科練習生。ミッドウェー海戦では、空母「蒼龍」乗組の艦攻操縦員として奮戦。その後陸攻操縦員となった 。
昭和十六年に同じ本荘市出身の菊池良さんと入籍。昭和十八年には長男を授かり、親子三人水入らずの幸せな生活を送るが、昭和二十年三月二十一日、野中五郎少佐を指揮官とする神風桜花特別攻撃隊神雷部隊陸攻隊、第二中隊第一小隊三番機の操縦員として鹿屋基地より出撃。
四国沖の米機動部隊攻撃に向かう途中、米戦闘機の攻撃で散華した。
舛谷健夫さんに届いた良さんからの長文の手紙には、夫・正次郎との生活は短かいものであったが、その限られた日々がいかに尊いものであったか、そして夫との思い出、夫が残した言葉や手紙が、戦後の自分をいかに勇気づけてくれたかが綴られており、上島さんの印象的な朗読と、当時の写真や資料映像、音楽とのコラボレーションによって、一つの物語のように感動的に披露された。
続いて、三十周年記念フォーラムとして、ジャーナリストの上島嘉郎さんをコーディネーター、藤本光男さん、倉秀人さんをゲストとして「キミガタメ、今こそ英霊の想いを語り継ぐ!」が開催された。
上島さんが次世代の日本人に伝えたいことについてお二人に尋ねると、藤本さんは「日本が明治以来、欧米列強と戦って独立を保った民族の誇りを忘れないで欲しい」と語り、倉さんはご自身が代表を務めるNPO法人の活動を通じて、三代先の子供達に正しい日本の歴史を伝えていきたいと熱く語った。
倉秀人さんは、健康、食育、社会問題、会社案内など多岐にわたるジャンルをマンガで伝えるユニークな出版社の社長であり、NPO法人「ふるさとにっぽんプロジェクト」代表として、マンガで子供達に日本の歴史を伝える活動を精力的に行っている。ご自身は鹿児島県出身で、高校時代に教えを受けた先生は、戦時中、特攻隊員の世話をしていた。
かくばかり 醜き国に なりたるか
捧げし人の ただに惜しまる
昭和万葉集に納められたこの歌を初めて知ったとき、倉さんは大変な衝撃を受けたと言う。
「この歌の通りだ。こんなみっともない国にするために二百四十六万柱の英霊が死んだはずがない。」
倉さんは、自分独自のやり方で次世代の子供達に日本人の伝統と誇りを伝えるため、歴史マンガの制作を始めた。
真珠湾攻撃の九軍神の慰霊祭を継承する人々の物語。人間魚雷「回天」隊員と回天の母・重さんの物語。「エルトゥールル号」の逸話から見るトルコと日本の友好の物語。
歴史の教科書では触れないが、日本人として是非知っていて欲しい歴史的な題材をマンガ化し、子供達に配布している。
歴史マンガのラインナップは今後もさらに増えていく予定だ。
今回の秋田県特別攻撃隊招魂祭ならびにシンポジウムの大きなテーマは、「いかにして先人の想いを次世代に語り継いでいくか」ということであった。招魂祭での英霊の遺書朗読、シンポジウムでの
英霊の妻の手紙の朗読には、「いかにして後世に顕彰するか」と言う、主催者舛谷政雄さんの深い思いがあった。
ご尊父健夫さんが秋田県特別攻撃隊忠魂碑を建立されてから三十年の時が過ぎ、健夫さん始め、旧帝国軍人、ご遺族など、あの戦争を経験した人々が一人また一人と亡くなった。これまでの世代は戦争経験者から話を聞く事ができたが、これからの世代はその機会もなく、ますますあの戦争が歴史の一ページとして遠くなるばかりだ。
「今回、遺書を何点か朗読し、令和に蘇った昭和の英霊の声として、今を生きる若者が先人たちに思いを馳せる端緒になってもらえれば、父も安堵するだろうと信じ、仲間と相談して企画しました。」政雄さんは招魂祭の挨拶でそう述べた。
このような事情は本招魂祭に限らず、日本各地の慰霊祭に共通することではないだろうか。
あの戦争の記憶の分岐点にさしかかりつつある今、これからいかにしてこのような慰霊祭を継承していくかはまさに焦眉の急であり、その為にどのように顕彰していくべきかを真剣に考えなければいけない大事な転機である。
今回、秋田県特別攻撃隊招魂祭ならびにシンポジウムに参加し、舛谷政雄さんの英霊の遺書朗読の取り組み、そして、倉秀人さんの子供達にマンガで歴史を伝える活動に、特攻隊慰霊・顕彰の新たなあり方の一つを見た気がした。
シンポジウムが終わってロビーに降りると、藤本さんがソファに座って実行委員長の山本高敬さんと談笑しながらタクシーを待っておられた。
杖の上に両手を乗せて座る藤本さんの背筋は真っ直ぐに伸び、実際のお歳より若い印象を受ける。
七十六年前、藤本さんは「月光」、「彗星」の後部座席で、このように毅然と座って任務にあたっていた若干二十歳の若鷲だった。
郷土秋田から予科練に入り、同期生と切磋琢磨しながら厳しい訓練に耐えて巣立った雛鷲は、地獄の飛練での訓練を経て、実施部隊での熾烈な空の戦の中で常に己の極限の力で飛翔し、一人前の荒鷲となった。
そして今、藤本さんは、あの戦争を次の世代に語り継ぐ郷土最後の海鷲として、
終わりなき戦いを続けている。
ロビーの大きな窓越しに見える秋田の街は雨に濡れそぼり、その景色の中にタクシーが到着するのが見えた。山本高敬さんと共に藤本さんをタクシーまでエスコートすると、藤本さんは軽く会釈して車上の人となった。
来年もまたお元気な姿で「今年、九十六歳!」と笑う藤本さんにお会いするのが楽しみである。
参考文献
『秋田県の特攻隊員』ツバサ広業出版部・非売品
『秋田県特攻隊招魂祭をふりかえって』ツバサ広業株式会社・非売品
『第十二期海軍甲種飛行豫科練修生戦歿者の記録』石川知里・非売品
『人間爆弾と呼ばれて』文藝春秋写真提供
ツバサ広業株式会社
招魂祭終了後の集合写真
シンポジウム