(特攻隊戦没慰霊顕彰会会員)
衆議院議員中西哲
謹んで新春の寿ぎを申し上げます。
私は、鹿屋基地、海軍兵学校、靖国神社、大津島の回天特攻隊記念館などを訪れ、多くの特攻隊員の遺書を読みました。
その中で、鹿児島県の知覧特攻記念館で読んだ遺書が忘れられません。
知覧基地から直接飛び立った特攻機は約430機、ここにも多くの遺書と遺影が飾ってあり、丹念に読みました。
その中で、読んでいて意味の分からない遺書がありました。
それは藤井一中尉の遺書でした。
「冷えた12月の風の吹き荒ぶ日、荒川の河原の露と消し命。母と共に殉国の血に燃ゆる父の意志に添って、一足先に殉じた哀れにも悲しい、然も笑っている如く喜んで、母と共に消え去った、幼い命がいとほしい。
父も近くお前たちの後を追っていけることだろう。
嫌がらずに今度は父の暖かい懐で、だっこして寝んねしようね。
それまで泣かずに待っていて下さい。
千恵子ちゃんが泣いたら、よくお守りしなさい。
では暫く左様なら。
父ちゃんは戦地で立派な手柄を立ててお土産にして参ります。
では一子ちゃんも、千恵子ちゃんも、それまで待ってて頂だい。」
これまで読んだ遺書は祖国に対する思い、母や家族に対する思いがつづられた遺書でしたが、この遺書は何度読み返しても意味がわかりませんでした。
20歳前後の特攻隊員の多い中で藤井中尉は29歳、飛行機の前で撮った遺影は凛々しいお顔であった。
その謎は、記念館で買った佐藤早苗著「特攻の町知覧」という文庫本を読んで
分かりました。
それによると、藤井一中尉はパイロットではなかったが、熊谷陸軍飛行学校の中隊長として飛行機乗りの教官をしていた。時節柄、多くの生徒が特攻隊員として出撃して行った。
「俺もかならず後からいく」と言った生徒との責任を果たすために、藤井中尉は特攻隊員を志願したが中々受け容れられなかったそうです。
藤井中尉には中国戦線で負傷し入院中に、当時野戦看護婦として勤務していた福子という恋愛結婚で結ばれた妻と、3歳と生後4ヶ月の二人の娘がいたそうです。妻の福子は二人の娘と自分をおいて特攻を志願する夫の気持ちがわからず、ずいぶんと言い争いもしたそうです。
それでも夫の決心が変らないと悟った時に、福子は娘二人を連れて無理心中する道を選んだ。
昭和19年12月15日の早朝、夫が週番士官で基地に泊まり、家を空けている間に、妻福子(当時24歳)は3歳の娘になる一子と、まだ4ヶ月にしかならない千恵子と共に荒川に身を投げ、紐で結ばれた三人の遺体は荒川に浮かんだ。
この遺書は、その日の深夜、藤井中尉が母に連れられて死んでいった一子に宛てて書いた手紙で、藤井中尉の妹さんが保管しているものだそうだ。
決して読まれることのない、死んだ娘への手紙です。
藤井中尉はその半年後、昭和20年5月28日、知覧から出撃した第45 振武隊隊長として沖縄近海洋上で戦死されました。
戦争に巻き込まれないためにはしっかりとした抑止力、防衛力が必要であると思います。