昭和20年3月、バギオを攻略しようとする米軍は、ナギリアン道(九号道路)からバギオに迫っていた。
4月12日、敵はM4戦車を先頭として、天然の要衝イリサン(バギオ西方一〇粁)に迫った。もし、ここでイリサンの隘路を突破されれば、我が軍司令部のあるバギオは、その日のうちにも敵戦車に蹂躙される危機に瀕していた。
ここにおいて第14方面軍司令官山下奉文大将は、直轄戦車隊(戦車第10連隊第5中隊・長桜井隆夫大尉)に対し、決死特攻隊の編成を命じ「敵戦車の突進を阻止せよ」と命じた。
選ばれた丹羽治一准尉を長とする十一名は、15日山下大将直々の激励を受け、恩賜の酒を酌み交わし、勇躍出発した。
搭乗する軽戦車(95式)、中戦車(97式)各一両は戦車前方に爆薬二〇瓩を突き出した異様な形状であった。
17日午前9時、敵M4はイリサン橋西北方二〇〇米の曲り角に現れた。その先頭車は、我が特攻車の不意の出現により、慌てたためか操向を誤り、崖下五〇米に転落した。この機を逃さず、特攻車はM4に突進し、その第二、第三車に爆雷による体当たりを行い、隊員は、玉砕、彼我の四車は大破炎上した。この決死的攻撃によって、敵の進攻は約一週間頓挫し、我がバギオ守備隊は整然と撤退作戦を行うことができたのである。捷号公刊戦史では、この特攻を「戦車の頭突き」と称している。(鹿江武平)
挺進工兵隊副官小白(旧姓安田千葉県我孫子在住)氏談
(この談話と鹿江氏の文とは日付に食い違いがあるが、そのまま掲載する。)
我々の部隊はそれまで別のところでゲリラ討伐に任じていましたが、イリサン方向が危いというので、苦戦の中の独混58旅団に配属されました。隊長代理の中井大尉と私がイリサンの旅団司令部に到着したのは14日の4時でした。折しも戦車二両が到着したと言って、戦車服を着た曹長二名が山の斜面にある旅団司令部に現れました。
居合わせた参謀がMー4の背後を射てとか発言しましたが、その曹長は「我々のできることはM-4に体当たりして爆砕するだけです」と言って、敵情地形の説明を聞き、昂然として朝露の中に消えて行きました。その光景は今でも忘れられません。
戦車はしたの道路に止めてあったのでしょう、私は見ませんでしたし、その戦闘振りも目撃した訳ではありませんが、あの面構えの曹長なら只では死ななかったろうと思います。
〔編集註〕挺進工兵隊は第一挺進集団の部隊であったが、クラーク地区に在った集団主力と離れ、方面軍直轄となりバギオ付近で戦闘していた。米軍のM4戦車と我が97式中戦車では次の通り性能に各段の差があって、戦車砲による戦闘は不可能だった。
M4 97式戦車 同改
自重(屯) 33.1 14.3 14.8
火砲 76ミリ加 57ミリ榴 47ミリ加
装甲全面 50ミリ 25ミリ 25ミリ
同 側面 38ミリ 25ミリ 25ミリ