若鷲の記
大津陸軍少年飛行兵学校は、太平洋戦争が苛烈の度を加え、その戦域が益々拡大された昭和十七年十月、航空戦力増強の要請に応じ、東京陸軍航空学校大津教育隊として此の地に開設され、翌十八年四月、大津陸軍少年飛行兵学校に独立した。
当時十五・六歳の少年たちは、祖国存亡のとき、陸軍航空の期待と栄光の重責を担い「至誠・純真元気・周到」の校風のもと、炎熱の朝、酷寒の夕、琵琶湖畔に、長等山麓に、幹部要員として徹底した一ヵ年の基礎訓練に励んだ。その数、第十五期生から第二十期生に至るまで八千有余人。ついで、操縦・通信・整備の各上級学校に学び、若鷲となって大空に巣立ち、北辺の空に、南溟の果てに、本土防衛のさきがけとなって愛機と生死を共にした。
昭和二十年八月、戦いは終り、これらの出身者、また未だ学業半ばの者は、ともに全国に離散し、本校もまた其歴史を閉じた。
往時茫々、戦後三十年。教えし者、教えられし者相つどい、かって青春のすべてを抛げうった想い出深きこの地に、永遠の平和を願って、茲に「若鷲の碑」を建立する。
昭和五十年十月十二日
大津陸軍少年飛行兵学校
関係者一同
所在地 滋賀県大津市園城寺町園城寺(おんじょうじ) 三井寺境内
建立 昭和50年10月12日