第三編 顕彰譜

特攻殉国の碑 特攻殉国の碑

 

碑文
昭和十九年、日々悪化する太平洋戦争の戦局を挽回するため、日本海軍は臨時魚雷艇訓練所を横須賀からこの地長崎県川棚町小串郷に移し、魚雷艇隊の訓練を行なった。
魚雷艇は魚雷攻撃を主とする高速艇でペリリュー島の攻撃、硫黄島最後の撤収作戦など太平洋、印度洋に活躍した。更にこの訓練所は急迫した戦局に処して全国から自ら志願して集まった数万の若人を訓練して震洋特別攻撃隊、伏龍特別攻撃隊を編成し、また回天蛟龍などの特攻隊員の練成を行なった。
震洋特別攻撃隊は爆薬を装着して敵艦に体当りする木造の小型高速艇で、七千隻が西太平洋全域に配備され、比國コレヒドール島沖で米國艦船四隻を撃破したほか、沖縄でも最も困難な状況のもとに敵の厳重なる警戒を突破して特攻攻撃を敢行した。伏龍特別攻撃隊は単身潜水し水中から攻撃する特攻隊でこの地で訓練に励んだ。
今日、焼土から蘇生した日本の復興と平和の姿を見るとき、これひとえに卿等殉國の英霊の加護によるものと我等は景仰する。
ここに、戦跡地コレヒドールと沖縄の石を併せて、ゆかりのこの地に特攻殉國の碑を建立し、遠く南海の果てに若き生命を惜しみなく捧げられた卿等の崇高なる遺業をとこしえに顕彰する。
昭和四十二年五月二十七日
有志一同 元隊員一同

 

建立の由来
昭和41年8月元隊員より散華した戦友の慰霊碑建立の発議あり、これを受けて佐世保、関西、東京におい関係者が夫々相寄り審議を重ねた結果9月に元川棚臨時魚雷艇訓練所跡地に建立に踏み切った。次いで厚生省に赴き戦死者調査を行い2千9百5拾名の確認を得た。
長崎においては川棚町や地元總代に敷地確保と買収について精力的な折衝を続け、遂に郷有地一九四坪、個人所有地一〇四坪、計二九八坪の入手に成功した。
募金本部は長崎真珠会館に置き東京、大阪と連絡をとり事業の推進をした。42年4月末までに目的を大半達成することが出来た。
碑石は長崎県特産銘石 「蛇紋石」を選び、更に震洋ゆかりの地コレヒドールと沖縄の石で色どりを添え意義を深めた。
幾多の方々の尽大なご協力を得て碑は完成した。建立後は新ヶ谷郷と歴代海上自衛隊佐世保總監のご好意により継続的奉仕作業をうけ碑の美化保存は会員一同
感謝の的となっている。
昭和60年大祭時に碑を増改築して、現在の刻名者は三三六七名となった。
特攻殉国の碑保存会

 

所在地 長崎県東彼杵郡川棚町新谷郷
交通 川棚駅下車・長崎空港より
バス川棚下車
建立 昭和42年5月27日
例祭 5月第二日曜日
5年毎に同右を大祭とする
守護団体 特攻殉国の碑保存会