この稿を進めるうちに平成の時代を迎えた。激動の昭和が終わったのである。ある人は、明治は「志」の時代であり、大正は「文化」の時代であったと言う。では昭和は何の時代であったのか。編者は昭和を激動というより、あえて「爆発」の時代であったと言う。第一のはいうまでもなく大東亜戦争であり、第二の爆発は戦後民衆の力による前代未聞の経済的発展である。
歴史は因果の法則によって展開する。徳川の文明は、明治維新を招来し、諸外国の文化の吸収を旺盛なものにした。 列強の植民地政策を恐れた明治時代は、富国強兵を国是として、不平等条約の是正、侵略勢力の排除に努力を集中した。日清戦争、日露戦争の勝利はその成果であり、その結果日本は中国に多くの利権を持つことになった。
大正時代、世界大戦の砲声を遠くに聞きながら日本は平和であり、デモクラシーを謳歌した。そして中国における利権を確実なものにするための不平等条約を強いて中国民衆の強い反感を買った。 これが日中間の歴史に重大な不幸を生ずる第一歩となった。しかし第一次世界大戦の結果、世界の三大強国と自負するようになった日本人は、その過ちに気付くことが少なかった。
特別攻撃隊戦没者の多くはこの時代に生まれた。親たちは、生まれ出たこの子が、いつまでも平和に、健やかに育つことを願って名付けたことであろう。 特攻隊戦没者の名を書きつらねる度にそう思うのである。
昭和の初期、暗澹たる不況が世界を覆った。列国は経済ブロックを形成してこれに対抗し、日本はその圏外に置かれた。 諸外国を追って発展つつあった日本にとって、これは痛手であった。 明治以後急速に膨張した人口圧力が、これに拍車をかけた。満州事変はその一つの突破口であっだが、これを機に日本は世界から孤立した。資源を持たぬ日本は東洋にその経済圏を求めざるを得なかった。中国との友好を求めながらも、蔣介石政権との際限ない争いが続いた。
かくて、宿命の如く、蔣政権を支援する世界各国との戦争が開幕する。それは、明治以来の国是を貫徹しようとするものであって、日本にとっては正義の顕現であった。その故に、日本国民は一億一心となって戦争に従い、特攻隊員はその正義を信じて敵艦に体当たりしたのである。
昭和二十年、日本は敗れた。明治以来の国家体制と国是が崩壊したのである。敗戦によって日本が得たものは、過去への反省とポツダム宣言第11条にいう「……日本ガ世界ノ貿易関係二究局ニ於テ参加ヲ許サレヤウ」との文言だけであった。しかし、徳川時代を経て明治、大正、昭和の代に磨かれた国民の知的水準、各時代を乗り切った精神の強靭さは失っていなかった。 明治の国家体制が崩壊して、それらのものが燃焼して築き上げたものが、戦後における経済的繁栄である、反面、自国の安全を他国に委ねる無責任に甘んじ、実利的な物欲を追求した結果であるとの見方もできよう。かくて、日本人独得の心の美しさ、豊かさは逐次失われていったように思われる。
文化が爛熟し、国民精神に健全さを失った国家は必ず滅びることを、古代からの歴史は物語っている。 ここに、犠牲という最も美しく、豊かな精神を顕現して戦没した特別攻撃隊員の偉業と芳名を後世に伝え、国家、国民の永遠の平和と繁栄を祈念するものである。
最後に世田谷山観音寺において「特攻平和観世音菩薩」に捧げられる「特攻平和観音経」をかかげる。
平成二年三月十五日